政治

ヒールで国会座り込み 高市首相が隠したい「新進党イケイケ時代」

2026年8月10日


<span>ヒールで国会座り込み 高市首相が隠したい「新進党イケイケ時代」</span>
支持率が急降下中の高市早苗首相

高市早苗首相(65)は「強引」との批判をものともせず、数々の法案を成立させ、消費減税も決断した。高市一強と称される所以だが、ここに至るまでにも人目憚らぬ突破の姿勢と遊泳術で政界を渡ってきたのである。本人が触れられたくない新人時代の「顔」に迫る。

55年体制が終焉を迎えた1993年7月の総選挙で初当選

 今から33年前、1993年7月の総選挙は戦後政治史の転換点となった。自民党と社会党が議席を減らし、日本新党や新生党が躍進。55年体制は終焉を迎え、細川護熙連立政権誕生への道が開かれた。高市氏は無所属ながら、この歴史的選挙で初当選を果たす。

 その後、自由党、自由改革連合を経て新進党結党に参加した。当選同期には安倍晋三元首相、野田佳彦元首相、小池百合子東京都知事ら、のちに日本の政治を担う顔ぶれが並ぶ。減税日本代表の河村たかし衆院議員(77)も93年初当選だ。

「高市さんには先を越されましたわ」

 とは、河村氏。

「ワシだって総理大臣を目指していた人間ですから。高市さんはもともとテレビタレントでね。あのころは若い女性代議士だったし、スタイリッシュで目立っていましたよ」(同)

 高市氏と新進党で同僚議員の間柄でもあった氏には、忘れがたい逸話がある。

「名古屋市長になって、総務相だった高市さんのもとへ陳情に赴いた際の出来事です。当時、総務省は『マイナンバー制度』を推進中で、陳情後の雑談でもマイナンバーの話題に触れたと思う。実は高市さんは新進党時代、この制度の原型となった構想に強く反対していてね。そのことが後ろめたかったのでしょうか。陳情を終えて帰ろうとすると、高市さんが突然“昔の私のこと言わへんでね”と、関西弁で釘を刺してきたんです」

 新進党時代こそは高市氏にとって、触れられたくない“黒歴史”だったことを示唆する話と言えよう。

 そのキャリアの出発点は、神戸大学卒業後に松下政経塾の門を叩いたことだ。入塾後、米国民主党の下院議員事務所での勤務も経験する。28歳の時、「元米連邦議会立法調査官」の肩書を引っ提げてテレビ朝日の情報番組に出演し、一躍全国区の存在となった。

 政治アナリストの伊藤惇夫氏が振り返る。

「90年頃、自民党はリクルート事件を受けて『自民党政治改革推進本部事務局』を立ち上げ、政治改革に取り組んでいました。当時、私もその事務局のメンバーで政治資金制度改革などについて議論を重ねていたんです。高市さんがテレビに出始めたくらいの時期で“米連邦議会立法調査官だったらしい。米国の政治資金制度について詳しそうなので話を聞いてみよう”ということになりました」

 ところが、結果はまったくの期待外れだったという。

「第一印象は、バブル期に流行った“お立ち台にいそうなお姉さん”。実際に話を聞くと“米国は政党や政治家への直接献金が禁止されていて、非常にクリーンだ”とか表面的な話ばかりでした」(同)

 高市氏の国政選挙初挑戦は31歳、92年の参院選だ。自民党の公認指名選挙に敗れたにもかかわらず、無所属で出馬を強行。保守分裂選挙を招いた挙げ句、落選した。だが翌年、32歳で衆院選に初当選し雪辱を果たしたわけである。

「あのころは政界再編の真っただ中でした。94年4月、細川首相が突然辞意を表明すると、新生党代表幹事だった小沢一郎氏が間髪入れずに動きます。小沢氏は、自民党の渡辺美智雄元副総理に離党を条件として首相のポストを打診。野党の自民党を揺さぶった。それに呼応する形で自民党の柿澤弘治氏や、のちに高市氏の夫となる山本拓氏らが離党し、いわゆる“柿澤自由党”を結成しました。ただ結局、渡辺氏が離党を決断できず、柿澤自由党は羽田孜連立内閣に参加することになります」(政治ジャーナリスト)

今の高市首相は大の飲み会嫌いで知られるが……

 この自由党の結党に無所属の議員でただひとり参加したのが高市氏だった。同党結党メンバーの佐藤静雄元衆院議員(84)が言う。

「自由党の結党前から私、山本さん、いまは亡き新井将敬さん、太田誠一さん、さらに無所属の高市さんを加えた5人でよく勉強会をしていました。そこに柿澤さんと米田建三さんが加わり自由党ができたのです」

 佐藤氏によると、当時から高市氏は保守的な考え方に共鳴していたという。

「高市さんは“今の憲法はアメリカが作ったもの。自分たちの手で草案から作らないと”と持論を語っていました。また、東京裁判を念頭に“戦勝国主導で行った裁判は間違っている”とも話していました」(同)

 先のジャーナリストが補足する。

「たしかに、高市首相の歴史観は新人議員のころから変わらないようです。95年3月には、国会の不戦決議に反対。衆院外務委員会で“私自身は(戦争の)当事者とは言えない世代だから、反省なんかしていない”と発言しています。当時、朝日新聞がこの発言を問題視して大きく報じ、本人に真意をただす特集記事まで組みました」

 一方、今と大きく異なるのが人付き合いだろう。

 高市氏と言えば、今では大の飲み会嫌いで知られるが、佐藤氏いわく、

「勉強会のメンツでよく飲みましたよ。場所は都心のホテルの一室が多かった。ビールのあと、焼酎を飲むのがお決まりでしたが、彼女は真面目に政治について議論をしながら男連中と同じペースで飲んでいました。ホテルの部屋はまだ禁煙ではなくて、我々と同じように煙草も吸っていました」

 羽田連立内閣がわずか64日で退陣に追い込まれると、自由党は結党から3カ月後の94年7月に自由改革連合に合流。12月には新生党、公明党、日本新党などとともに新進党を立ち上げて、高市氏も結党メンバーになる。佐藤氏が続ける。

「私と柿澤さんは“考え方が違う”ということで新進党への参加を見送り、新党として自由連合を別に立ち上げ、最終的に自民党に復党しました。でも、高市さんは当初無所属でしたし、戻る党がなかったはず。新進党に参加したのは、そういうやむを得ない背景事情もあったのでは」

 新進党は船出から波乱含みだった。かつて「政界のプリンス」と称され、新進党でも若手筆頭株と目された船田元(はじめ)・元経済企画庁長官(72)が語る。

「新進党は結党時から二つの勢力に分断されていました。最初の党首選では自由改革連合前代表の海部俊樹さん、新生党前党首の羽田孜さん、民社党前委員長の米沢隆さんが出馬したのですが、事実上、海部さんと羽田さんの一騎打ち。海部さんが党首になった際は、小沢一郎さんが幹事長になることが約束されていました」

 続けて言うには、

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