A級戦犯合祀に不快感を示した昭和天皇
元宮内庁長官の富田朝彦(ともひこ)氏(1920~2003)が書き残した日記や手帳などの「富田メモ」が日経新聞(2006年7月20日)でスクープ報道されてからこの7月で20年となった。
この「富田メモ」で最も注目されたのが、靖国神社のA級戦犯合祀に対する不快感を示したとされる昭和天皇の次の発言であった。
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」
「松平」とは宮内大臣だった松平慶民(よしたみ)で、「松平の子」とはその長男・松平永芳(ながよし)である。靖国神社宮司となった永芳が、1978年、A級戦犯を合祀した。昭和天皇は75年11月を最後に、靖国神社に参拝していない。
昭和天皇はA級戦犯が合祀されたから参拝をやめたのか。「富田メモ」のこの部分をめぐっては、本当に天皇はそのような発言をされたのか、それが本当の理由なのかといった議論がある。
筆者は皇室記者時代、退官して間もない富田氏に昭和天皇の思い出について計8時間余のロングインタビューを行ったことがある。そこでの発言に触れる前に、富田氏の人物像に迫ってみたい。
第3代宮内庁長官の富田氏は、警察庁の出身である。あさま山荘事件の際は警察庁警備局長として現場で指揮を執り、警視庁副総監、内閣調査室長を歴任。74年(昭和49年)に次長として宮内庁入りし、78年から88年まで10年間、長官を務めた。
在任中は昭和天皇の在位60年、浩宮さま(現天皇陛下)や礼宮さま(現秋篠宮)の成年式、高松宮さまの葬儀を取り仕切り、「陛下の手術」を決断した。退官後、皇室の相談役の宮内庁参与となり、2003年、83歳で亡くなった。
昭和天皇は富田氏の退官から3か月後の88年9月に大量吐血して最後の闘病生活に入る。当時、宮内記者会にいた筆者は翌月から、天皇に信頼されてお二人だけで話す機会が多かった富田氏に「陛下との思い出の手記を書いてほしい」と夜回り先のご自宅などでお願いを始めた。最初は断られたが、何回かの交渉の末、「自分で手記は書かないが、君がまとめてくれるのならインタビューに応じてもいい」という返事をもらうことができた。
こうして、手術するに至った決断や、沖縄についての思い、国民との触れ合い、皇室外交、戦前・戦中・終戦時のこと、退位問題など聞いておきたいテーマを事前に伝え、同年11月8日から崩御翌日の89年1月8日まで約10回にわたるロングインタビューが実現した。場所はマスコミ陣のご闘病取材でごった返す宮内庁内の一角にある参与室や、富田氏のご自宅だった。
富田氏は実によく下調べをしてくれていた。話す内容をまとめて書いてある白い紙や、時折、手帳や日記帳と思われるものを見ながら、陛下との思い出を語ってくれた。「富田ねえ」と陛下が話しかける時の語り口をまねるのが、実にうまかった。筆者がちらりと見た、富田氏の手元にあった手帳や日記帳が、後に「富田メモ」と呼ばれるものである。
インタビュー初日は、陛下の開腹手術を決断した責任者として「心配で、手術の無事終了を聞いた時はホッとした」「陛下が先に亡くなった弟たちのように、太く短く、というのがいいのかなと考えることもあるよ、と(開腹手術から約半年後に)漏らされた。陛下の弱気な言葉を聞いたのは初めてで、私は陛下に、『すでに太いのでありまして、太く長くお願い申し上げます』と話したら笑っておられた」など“新事実”を聞くことが出来た。
靖国神社側からご親拝の要請がなかった
また、富田氏はこんな秘話も語ってくれた。
「陛下が、若槻礼次郎元首相(大正末期から昭和初期に2回総理を務めた)に、在任中に勃発した満洲事変(1931年)の時の苦労を聞いたら、答えてくれなかった。陛下は『もし若槻が元総理の立場で当時の苦労を話せば、関係者もまだ生きているし、その人たちの立場がなくなるだろうから、若槻は信義上言いたくなかったのだろう。その気持ちが、この年になってよくわかるんだよ』と言われた。陛下も歴史の証人的な質問をされることが多いが、答えるわけにはいかないんだと、おっしゃりたかったのだろう」
記者クラブに戻り、直ちに執筆を始めたかったが、夕方の宮内庁発表で陛下の体温は39度、血圧も急激に低下して高木顕侍医長が泊まり込む事態となったため、病状取材に追われることに。幸い深夜になってご病状の回復が見られたので、筆者は宿泊先のホテルで朝方まで富田回想の記事を急ぎ執筆したことを覚えている。
2回目のインタビューは2日後で、テーマは皇室外交など。富田氏が長官となった78年に中国の実力者、トウ小平副首相(当時)が来日したが、陛下は「いろいろ話をして、心を通じて帰ってくれたと思う」と喜んでおられたという。
また84年に韓国から全斗煥大統領が同国国家元首として初めて来日した際のお言葉の作成に関与した富田氏は、美辞麗句を並べただけでは将来の日韓関係にプラスにならないという信念で、皇室として言い得るギリギリの内容を盛り込むことにした。陛下の了承を得たお言葉は「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」となった。
取材はこの日、2時間に及んだ。筆者は富田氏の回想を新聞で連載にするため、タイトルと富田氏の署名を自筆で書いてほしいとお願いすると、「陛下の思い出を語るのは、私(富田氏)の宣伝ではないんだから」と渋り、応じてくれなかった。謹厳実直で、自分が目立つことを嫌う富田氏らしい対応だった。
毎回、こちらがほしい話を順調に聞けるわけではない。特に、戦争に関連することや、政治がらみの件になると、富田氏はかなり慎重になり、口が重くなることが多々あった。
3回目のインタビュー(同年11月11日)のことだ。富田氏は、
「戦争や終戦時の話を私の方から陛下に申し上げることは避けていたし、私から質問をすることもなかった。お側の者なら時を見て陛下にお聞きすることが出来るかもしれないが、長官は陛下にあれこれ質問する立場にはない。この頃のことは(陛下が何を語っていたか話すのは)勘弁してよ」
と、筆者に理解を求めた。
筆者は続けて、靖国問題について、
「陛下は昭和50年の靖国ご参拝の後、A級戦犯合祀問題が起きてから参拝をしていませんが、もし機会があれば靖国参拝をしたいというお考えだったのでしょうか」
と、単刀直入に質問してみた。
富田氏は初めに「その後(昭和50年以降)、靖国神社側からご親拝の要請が私のところ(長官)まで上がってくることはなかった」と答えた。そのすぐ後に、
「(靖国に関する質問は)避けなさい、やめなさい。靖国は国際問題になっており、国内外の政治問題になっていることに、陛下を巻き込むのは」
という趣旨のことを言って口をつぐんだ。ロングインタビューの中で富田氏が筆者の質問を制したのはこの時だけだった。
たぶんこの後だったと思うが、筆者は「陛下からお聞きになったことで、まだ公開されていない大きなニュースはありますか」と尋ねたことがある。これに対し富田氏は「私が墓場まで持って行かなければならないものもある」と言った。
当時の筆者は、「富田メモ」の存在を知る由もなく、富田氏の謎めく発言に当惑するばかりだった。この一連の取材は富田氏が陛下を語る企画なので、富田氏本人が言いたくないことを無理やり引き出すのはふさわしくないと筆者は思い直し、回想記の完成を急ぐことにした。