Vol. 7

カルチャー

日本代表の取材はなぜかくも厳しくなったのか 円安と取材規制で変化したメディアと選手の遠近法

2026年8月22日


<span>日本代表の取材はなぜかくも厳しくなったのか 円安と取材規制で変化したメディアと選手の遠近法</span>
帰国後に記者会見に臨んだ森保一監督(真ん中)、JFA宮本恒靖会長(右)、山本昌邦技術委員長(左)

今回のワールドカップでは、「メディアと日本代表の関係性」が注目の的となった。SNSやYouTubeでの“公式発信”が増える中、メディアが取材する意義とは。ベスト8の悲願を果たすために何が必要なのか。「現場」にこだわり続けた30年の取材録と提言。

 2026年北中米ワールドカップ(W杯)優勝という大目標を掲げていたサッカー日本代表だが、ご存じの通り、ラウンド32でブラジルに逆転負け。またしても決勝トーナメント1回戦の壁に阻まれた。

 2027年アジアカップ(サウジアラビア)まで続投が決まった森保一監督は「もっと上に行きたかったという悔しさは今も強い」とさまざまな場でコメントしているが、それは日本代表を追ってきたメディアも同じだ。多大なる労力とコストを使ってW杯までの4年間を追いかけている側としては、「もう少し上のステージに行ってほしかった」という悔しさや不完全燃焼感はいまも残り続けている。

円安下の代表取材

 未曽有の円安と移動コスト高が加速する昨今、代表取材の経済的負担というのは、年々、重くなっているのが実情だ。

 2022年カタールW杯以降の4年間を振り返っても、日本代表はまず2023年9月にドイツ・ベルギーへ遠征。同年11月には2026年W杯2次予選初戦・シリア戦の行われたサウジアラビアへ赴いている。

 続く2024年は1~2月にカタールでのアジアカップに参戦。同年6月には2次予選の地・ミャンマーへ出向き、9~11月の最終予選ではバーレーン、サウジアラビア、インドネシア、中国へ立て続けに遠征した。

 さらに2025年は6月に最終予選海外ラストのオーストラリアへ。9月にはW杯のシミュレーションを兼ねてアメリカへ赴き、2026年突入後はW杯本番直前の3~4月にスコットランド・イングランド遠征を実施している。

 基本的に経費自己負担の我々フリーランスが全試合をカバーするのはさすがに難しい。ただ筆者は上記のうち2023年11月のサウジ、2025年6月のオーストラリアだけを除き、それ以外は全ての海外試合に赴いた。もちろん国内の試合も現場取材を継続。必ずしも採算が取れなくとも「代表を間近で見続けねば」という思いが勝っているからこそだ。

 それに加えて本大会である。モンテレイでの事前合宿から始まり、大会直前にはベースキャンプ地・ナッシュビルからダラス、モンテレイを往復。最後のヒューストンへのフライトは円安の影響もあり高額だった。となれば、日本が負けるとW杯にとどまり続けるのは難しい。98年フランスW杯から決勝は全部現地で見てきた筆者も今回は途中離脱を決断。7月初旬には日本に帰国するしかなかった。

「本音トーク」で築いた選手との関係性

 そこまでして長年、日本代表に力を注いできたのは事実である。間近で見てきたチームが強くなり、選手たちが大きな飛躍を遂げるのは何よりも嬉しいことであるし、何より日本代表を客観的に分析していくには、近い距離で観察することが重要だと考えるからだ。だが、筆者が関わった約30年の間にメディアと選手・コーチングスタッフとの距離感が遠くなった印象もある。そこには一抹の寂しさを覚えるのだ。

 日本代表の取材現場に初めて赴いたのは、94年4月。ドーハの悲劇の後、パウロ・ロベルト・ファルカン監督体制だった。当時は筆者も若かったから選手と年齢が近く、取材規制が緩かったため、身近に話ができたと記憶している。

 その後、98年フランスW杯前後の時期になると、高校生、あるいは新人Jリーガー時代から知っている選手も増えてきた。となれば、彼らのことを下の名前で呼ぶことも多く、今回のW杯に帯同した中村俊輔コーチもその1人で、筆者を含めた多くの記者から「俊輔」「シュン」と呼ばれ、親しまれていた。

 日本代表の取材環境も、フィリップ・トルシエ監督時代だけは非公開が多く、選手と話せるのは決まった場のみという規制が設けられたが、彼らとはJリーグクラブの練習に行けば気軽に話ができたので、そこまで問題にはならなかった。その後のジーコ、・イビチャ・オシム、岡田武史監督時代はほぼ毎日練習が公開され、ミックスゾーン(取材エリア)も誰でも好きな選手に聞けるというのが基本だった。もちろん中田英寿のように話をしない選手もいたが、中村俊輔や遠藤保仁(現・G大阪ヘッドコーチ)、中村憲剛(現・川崎ヘッドコーチ)らとは連日話せて、コミュニケーションを深める機会が持てた。

 彼らと本音トークできる場面が多ければ、距離感も自ずと近づく。我々メディアにとっては、非常に好ましい環境だったと言っていい。

 2010年南アフリカW杯では選手の負担軽減、チーム戦術漏洩阻止などの観点から大会中の取材対応選手制限というのが本格的に行われたが、その後のアルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ両監督時代はミックスゾーンの規制は特に設けられず、希望の選手とほぼ毎日、話ができた。本田圭佑(現・FCジュロン)などは「1回の活動につき1回」という形で自主規制をした時期もあったが、岡崎慎司(現・バサラ・マインツ監督)や香川真司(現・C大阪)などは基本、いつでも話をしてくれた。彼らがいつも来る我々のような記者をよく覚えていて、今もフレンドリーに接してくれるのも、長年の積み重ねによるところが大きいのだ。

遠ざかるメディアと選手との距離

 自由度の高かった代表取材の環境が大きく変わるきっかけの1つになったのが、2015年6月の日本サッカー協会(JFA)広報とメディアの話し合いだろう。

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