情報を読み取る基礎は国語と数学
デジタル技術をうまく使えば、生徒や学生の主体性を強化することは十分に可能です。文部科学省が進めている「GIGAスクール構想」も、一人一台の端末を整備して、誰もが必要な情報にアクセスできる環境をつくり、地域や家庭環境によって情報へのアクセスに格差が生じないよう、国がインフラを整備することには大きな意味があります。
ただ、端末を配ってネットワークを整備することと教育の質が上がることは全くの別問題です。生徒や学生が本来持つ大きな潜在力をどう引き出すかの教育方法が現場で確立されなければ、どれだけ高度なデジタル機器を導入しても十分な教育効果は期待できません。
その意味でデマやフェイクニュースに流されないよう情報教育を強化するため、国語や数学などの基礎科目の学習を弱めるのだしたら、その方向性は本末転倒です。情報機器の操作技術ではなく、文章を正確に読み、「何が事実で、何が意見か」「この結論はどの前提から導かれているか」「論理の飛躍はないか」と判断する力が必要で、その基礎になるのが国語と数学です。
国語教育の非常に重要な役割の一つは論理を身につけること。文章の論理構造を把握するためには数学も必要です。デマ情報に強い人間をつくるために最も重要なのは、教師が「これはデマ」「これはフェイクニュース」と一つ一つ教えることではなく、自分で文章を読み、そこにある論理をたどり、「この話はおかしい」「この結論はこの前提からは出てこない」と気づける人間を育てることです。
私は1970年代、高校で「ニューマス」、当時の現代数学的な教育を受け、集合・論理・写像・公理系といった考え方を徹底して学びました。対象を構造として捉え、物事の関係を整理する訓練を受け、そうした論理的な思考は今も、情報を分析する仕事に非常に役立っています。生成AIの時代にはこうした能力がむしろ重要です。ところが今の文科省は、そうした数学的な基礎を十分にやらないまま、情報教育だけを増やそうとしている。それではほとんど意味がない。
「情報Ⅰ」「情報Ⅱ」も「地学基礎」も情報の羅列に
高校の「情報Ⅰ」「情報Ⅱ」の教科書でも、特に情報Ⅱはかなり難しい内容を扱うにもかかわらず、その理解に必要な、複雑な数学的操作の学習を飛ばした結果、まるで社会科の教科書のように情報の羅列になっている。AIを作る礎にある数学を成り立たせる論理や数学を理解しないまま、AIの知識だけを覚えても仕方がない。理科4科目の中でも非常に難しい地学は超応用学で、本来はかなり高度な数学を使います。ところが特に高校の「地学基礎」の教科書は数学的な処理をほとんど飛ばし、社会科の教科書に近い構成になっているのです。
「情報」科目が入ったことで、数学の中から公理系や写像などの基礎的な考え方がなくなることが心配です。情報教育を増やしても、その情報技術を成り立たせる論理や数学的な基礎を学ばなければ意味がない。数学者の芳沢光雄先生の言い方を借りれば、数学は「非言語的論理」で、国語や英語は「言語的論理」。両方の基礎を積み重ね、特に小中学校で、こうした基礎を徹底して身につけることが重要です。高校になると内容はかなり応用的になるので、特に小中学校での基礎教育が重要。知識や記憶をすべてAIによる“外付け”に頼らず、読み書き算盤のような旧来型の教育、特に算数と国語をベースにした基礎教育をきちんと受けた人間が、生成AI時代には逆に強くなると思います。
情報教育は国語や数学によって支えられるものなので、デジタルと、国語・数学を対立させてはいけない。情報社会になったからこそ国語と数学を強化し、その上に情報教育を積み上げる。その順序を間違えてはいけないのです。
自分で考え、他人の考えを聞き、解説と突き合わせ、もう一度考える
デジタル社会における教育の一つの鍵になるのは「輪読」と思っています。私は同志社大と広島大で、フランスのグランゼコール(高等教育機関)で使われる教科書を学生と輪読し、そこに私が解説を加える形式の講義を行い、非常に大きな教育効果がありました。難しいテキストを自分で読み、次に皆で少しずつ読んで書かれている意味を確認していく。他の学生がどう読んだかを聞く。そこに教師が背景知識や論理構造について解説を加える。解説を踏まえ、再度自分で考える。学生自身が考えるようになるので、非常に大きな意味があります。生成AIに文章を要約させ、分からない部分を解説させられても、その説明が本当に正しいかを最終的に判断するのは人間です。自分や他人の読み方を議論し、解説を聞いた上で、生成AIの回答と比較すれば、生成AIは人間の思考の代行ではなく、自分の思考を検証し、深める道具になります。生成AIを単なる「答えを出してくれる機械」にすれば、生徒や学生の主体性はむしろ弱くなる可能性がある。デジタル端末を一人一台持たせるだけで文科省のいう「主体的な生徒」は増えない。教育にデジタル技術をどう組み込むかを考えなくてはなりません。
同志社大の集中講義で、生成AIを使った実験を考えています。学生に生成AIを使ってレポートを書かせ、提出後に用紙を渡し、「レポートの要旨を1時間で書きなさい」とやるのです。レポートを50点、要旨を50点とすれば、生成AIで作ったレポートをろくに読んでいない学生は、要旨を書けず、60点が基準の単位も取れないのです。
生成AIへの指示の仕方についても同じ。私は自分の考えをまとめるため生成AIを使う際には、自分の講義ノートを生成AIに読み込ませ、その範囲のみで回答を作るよう指示しています。Wikipediaや新聞記事には触れさせません。ベタな回答にならないよう、自分自身で「情報のプール」をつくっておかなければならないのです。
自らの思考が「生成AI化」しないために
怖いのは、生成AIが間違った答えを出すこと以上に、私たちの思考そのものが「生成AI化」することです。