連載|カルチャー

Vol. 2

なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか?

2026年10月4日


<span>なぜ福澤諭吉の書く本は売れたのか?</span>


バカ売れ25万部デビュー作


 福澤諭吉の初ベストセラー
 福澤諭吉は何をやった人か?
 そう問われたとき、案外「え~~~と、一万円の人?」と首を傾げるにとどまる人も多いのではないだろうか。「あっ、慶應をつくった人だっけ」「あれでしょ、『学問のすゝめ』書いたんでしょ」という答えも出てくるかもしれない。しかし、それにしたってお札の顔になった人のなかで、こんなにもふんわりとした業績しか知られていない人も珍しいのではないだろうか。樋口一葉なら「たけくらべ」とか、野口英世ならノーベル医学生理学賞候補とか、代表される何かが福澤諭吉の場合、そこまで知られていない。
 だが、福澤諭吉とは、批評家だったのではないだろうか、と私は思っている。
 つまり、小説家でもなければ俳人や歌人でもなく、言葉を扱う人として彼は存在していたのではないか、と。私なんかは彼の人生を知れば知るほど「おお、明治時代の批評家の仕事をなさって……」という思いに駆られる。社会批評だなあ、と著作を読んでいると思ったりする。文芸批評が批評だと言われるようになったのは戦後のことではないのだろうか。
 まあそんな与太話は置いておいても、彼の人生を繙くと、こちらが想像していた以上にまずは「著作」に重点を置いていたことがよくわかる。
 そもそも彼が世に知られたのも、著作『西洋事情』初編(慶應2年〈1866年〉)がベストセラーになったことが大きいからだった。
 福澤、33歳の出来事だった。

『西洋事情』
『学問のすゝめ』以前に、自身の西洋渡航体験をもとに西洋の文化を紹介した本が、ベストセラーになっていたのである。『西洋事情』がどれくらい売れたのかといえば、発行部数は15万〜25万部(公式に売られたものが15万部、海賊版も含めれば20~25万部と言われている※1)なのだから本当に当時としては信じられないバカ売れである。ちなみに拙著『「好き」を言語化する技術』が30万部、か、勝ちました、ぎりぎり。ぜえぜえ。
 が、『西洋事情』から6年経った明治5年(1872年)に実施された壬申戸籍の調査によれば、当時の日本の人口は約3311万人。2026年日本の総人口は約1億2285万人といわれている。おおよそ3分の1の人口時代の25万部……。しかも当然ながら今ほどの識字率はない。『西洋事情』がものすごいベストセラーであることはお分かりいただけるだろうか。バカ売れだ!

 出版にこだわる福澤諭吉
 ちなみに福澤諭吉は出版にかなりこだわりがある。実は彼こそが元祖・自費出版作家。いまもZINEという「同人誌(出版社を通さずに自費出版をして刊行する出版物)」が流行しているが、その形態を福澤はすでに採用していたのである。なんとそれまで出版社に手数料を払って売ってもらうのが当然だったのに対し、制作~販売という工程を自ら担った福澤は、自費出版をおこなうのだった。……このあたりの話は大変面白いので、次回以降もう少ししっかり紹介したい。朝日新聞に就職した夏目漱石と対比させるとかなり面白い明治の出版事情が見えてくる。まあそんな出版システムにも興味があった福澤にとって、演説以前に「著作を出す」ことは重要な行為だった。そしてそんな福澤が、世に初めて知られたのも、著作だった。
 では、その著作を出す前―― 30代になるまで――彼は何をしていたのか?
 著作を読む前に、少しその人生を紹介しよう。


やたら勉強する陽キャ


 「門閥制度は親の敵で御座る」
 天保5年(1834年)大坂に生まれた福澤は、江戸時代の身分制度に対して、悔しい思いをすることの多い少年だった。
「門閥制度は親の敵で御座る」
 ――これは『福翁自伝』(福澤諭吉の自伝)の文章である。すごい言葉遣いだ。親のかたきでござる。今も何か蛇蝎のごとく嫌いなものがある人を見ると「○○に親を殺されたのか?」という冗談を言うことがあるが、福澤の場合は本当に、江戸時代の身分制度=門閥制度こそが、憎むべき対象だった。
 

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