<span>人間を眺める「ひと続きの眼」――食鳥処理工場のルポと家庭内の日常が同居して起きるケミストリーについて</span>

人間を眺める「ひと続きの眼」――食鳥処理工場のルポと家庭内の日常が同居して起きるケミストリーについて

2026年10月9日

一瞬を切り取る撮影という行為は、カメラによって現実をぶつ切りにして「写真」という画像に定着させているように見える。今年の新潮ドキュメント賞を受賞した『鶏まみれ』(亜紀書房)の著者、写真家である繁延あづさ氏の特異性は、単にぶつ切りにするのではないその「眼」にあるという。かねてより繁延氏に注目していた編集者の白石正明氏が彼女の唯一無二性を浮き彫りにする。

既存の概念が視野を覆ってしまう寸前に

 繁延あづささんの文章を最初に読んだのは、5年以上前の2021年3月のことだった。なぜ覚えているかというと、その半年前に出た『山と獣と肉と皮』(亜紀書房)を読んで、Twitter(現X)に連投した記録が残っているからだ。その冒頭の大要はこうだ。

遅まきながら、繁延あづささんの『山と獣と肉と皮』を読む。これは大変な本ではないか? 狩猟の本も台所の本もよくあるけれど、これは猟という非日常を、台所という日常に載せて語っている。この移行部分にこそ、誰も語っていなかった真の禁忌がある……

 興奮して書いているので少し分かりにくいかもしれない。要するにここでは、狩猟を狩猟の文脈内で、あるいは料理を料理の文脈内で語る本は多いけれど、この本はそうではないと言っている。概念上は二つに分けられている「生き物」と「食べ物」は実はひと続きのものであることを明らかにしつつ、なおかつ前者が後者に刻々と変わっていくプロセスを解像度高く見せられてしまった、と興奮しているのである。

 生き物は生き物として山にいて、食べ物は食べ物としてスーパーにある。こうして互いに知らん顔して平和共存していたのに、「実は私たちは同じものです」と、言われてみれば当たり前のことをあらためて宣言されて、生き物と食べ物の境界線が溶けてなくなってしまう。その境界侵犯こそが禁忌なのであり、それを淡々と描き出す繁延さんに私は震撼したのである。

 この『山と獣と肉と皮』の一年後に出たのが『ニワトリと卵と、息子の思春期』(婦人之友社)。すぐに気づくように、どちらも「と」が頻出するタイトルである。

 前作では「山」と「獣」と「肉」と「皮」のそれぞれを書きたいのではなく、それらの「あいだ」に何があり、それらがどのようにつながっているのかを見たかったのだろう。たとえば「殺す/捌く/料理する」という通常別々に扱われる行為が実は一体であることについて。あるいは「肉/膜/腱/骨」といった名称で区別される以前の、獣の体内のメカニカルな美しさについて。

 こちらでは「ニワトリ」と「卵」と「息子」というコントロール不能な不穏分子(?)そのものではなく、それらによって振り回される家族の「あいだ」には何があったのかが書かれている。

 このように繁延さんは一貫して「何かと何かのあいだ」について、もう少し大きく言えば「概念と概念のあいだ」について語っている。ただこうした言い方はあまり正確ではない。繁延さんの頭の中に先に概念があって、その概念と概念のあいだを透かし見ているわけではないからだ。

 むしろカメラマンである繁延さんは、既存の概念が視野を覆ってしまう寸前に、素早くシャッターを切るプロなのだ。繁延さんのカメラの中では、それが静止画であるにもかかわらず、山に入って獣を見つけて射殺して肉を食べ皮をなめして道具にするまでの一連が動画のように再生されているに違いない。

もう一度つなげて「ひと続き」のものとして

 私は今回新潮ドキュメント賞を受賞した『鶏まみれ』(亜紀書房)が、『山と獣と肉と皮』『ニワトリと卵と、息子の思春期』と合わせた三部作だと思っている。一作目(『山と……』)で色濃く表出していた「生き物が食べ物に移り変わってゆくプロセス」と、二作目(『ニワトリと……』)の中心テーマであった家庭での出来事の両方を、さらに合体させた作品といえる。

話題の受賞作

 動物を食肉に変化させる過程を純化させれば、本書で描かれた目の周りまで血だらけになるような凄惨ともいえる食鳥処理工場の描写になるが、その同じ人は、当たり前にごく普通の日常生活を送っている。実はこの二つが同時に描かれていることが重要なんだと思う。

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