教育

子どもの「体験格差をなくせ」という合言葉がもたらす悪循環と「3つの弊害」

2026年10月31日


<span>子どもの「体験格差をなくせ」という合言葉がもたらす悪循環と「3つの弊害」</span>
buritora / shutterstock.com

やり抜く力や忍耐力、思いやりや協調性など、非認知能力獲得の手段として、習い事や自然体験・文化体験・職業体験などの各種体験に期待が集まっています。しかし、もともと非認知能力とは、昔なら学校の裏山の秘密基地や家庭での手伝いや地域の大人との日常的なかかわりのなかで結果的に十分に磨かれていたものです。

子どもの市場価値を高めるための非認知能力

 どんな体験であれ子どもの非認知能力を引き出すのは自明です。それがお金のかかる学校外教育である必要はありません。

 しかし暴走した市場は、あらゆるものを(ときにはひとの心まで)お金に換算してしまいます。ハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル氏が『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(ハヤカワ文庫NF)で世界に突きつけた現実です。

 市場経済における競争力を高める武器としての各種能力を獲得できるとうたう体験コンテンツが商品化され、消費財化します。さらに、高度成長期以降続く大量消費社会の幸福観に、消費財としての子どもの体験までもが飲み込まれていきます。

 習い事や子どもキャンプなど、たくさんの体験コンテンツを消費できた子どものほうがしあわせで豊かであると、多くのひとが無意識のうちに思い込みます。“体験消費社会”です。

 地域が空洞化し、かつてはいわば社会からの贈与として無償で提供されていた学びの機会が失われました。代わりにそれらがアウトソーシングされ、“体験”というパッケージ商品になり、一つ一つに価格がつけられるようになったのです。

 この状況は、単にお金がかかるようになったという経済的な問題に留まりません。体験が消費財化し、将来の成功のための武装として扱われるとき、そこには取り返しのつかない三つの深刻な弊害が生じます。

子育ての責任をすべて家庭に押しつける社会

 第一の弊害は、子育ての家庭依存がこれまで以上に進行し、親と子の双方を自己責任論という底なし沼へ突き落としてしまうことです。

 生まれた家庭の経済状況によって体験に差があるという議論が活発になればなるほど、皮肉にも、子どもの体験を整えるのは親の責任であるという認識が強化されます。

 公的な支援策までもが“体験クーポン”のようなものを配付するだけで結局は家庭の“選択”に依存するようになると親は、わが子のために最適な体験を選ばなければならないプレッシャーに晒されます。

 しかも、本来それは多ければ多いほどいいという強迫観念に駆られ、子どもは親の焦燥を肌で感じとります。

 家庭を介した支援という構造の限界です。子どもが直接支援される構造に変えなければなりません。「こども家庭庁」のネーミングにおいて、「家庭」はないほうがいいのではないかと議論されたのはそのためです。

 たとえばプレイワーカーと呼ばれる遊び場づくりの専門家がいれば、地域全体が子どもにとっての秘密基地になり、子どもが自ら育つ力を呼び覚ますことができます。大人たち自身が勝手に集まって楽しむトーキョーコーヒーという活動の場では、大人たちの群れを見て、子どもたちの群れも「生きる力」を学びます。

体験までもが子どもの必修科目にされてしまう

 第二の弊害は、体験が教育的効果というモノサシで管理されることにより、子どもの学びから喜びが奪われてしまうことです。

 本来、子どもにとっての学びとは、この世界の神秘に触れ、体が震えるような発見をすることでした。しかし、学校制度が学びに達成目標と序列化を持ち込んだことで、“学校に取り込まれてしまった学び”から喜びが奪われました。

 そしていま、学校以外の学びまでもが、同じ毒に侵されようとしています。学校以外の学びに、将来の成功に必要な非認知能力の獲得という達成目標が設定された瞬間、それは学校の勉強と同列のタスクに成り下がります。

 キャンプへ行くのも、ボランティアをするのも、すべては能力向上のためという功利主義的な目的に吸い寄せられ、そこに「いいこと思いついた!」という子どもらしいみずみずしい衝動が介在する余白はなくなります。

 大人が先回りして教育的価値のある学びをお膳立てし、その成果を数値化して評価しようとする姿勢は、子どもが主体的に世界とかかわる喜びを根本から破壊するものです。

大量消費社会の物差しで自分を見てしまう子供たち

 第三の弊害は最も深刻です。体験の多い・少ないを「格差」とラベリングすることで、子どもたちの内面に取り返しのつかない欠損感を植えつけてしまうことです。

 子どもの貧困という社会課題を解決しようとする善意の裏側で、「体験が少ない自分はかわいそうな存在だ」「自分はひとよりも何かが欠けたまま大人になるのだ」という自己像が、当事者の子どもたちに刷り込まれます。

 パッケージ商品としての体験の回数や、そこに投じられた費用という、数えられる部分だけで自らの豊かさを測定するマインドセットは、子どもたちの自己像を激しく歪めます。

 体験はおもちゃに似ています。良いおもちゃが子どもに学びをもたらすことはいうまでもありません。しかし、ただ消費させることだけが目的のおもちゃもたくさんあります。それでは学びは得られません。

 高価なおもちゃより、むしろ枝とか小石とか毛糸とか廃材とか、おもちゃの顔をしていないもののほうが実はより多くの学びを子どもにもたらすことがあります。おもちゃをたくさんもっている子がしあわせで、少ししかもっていない子が不幸かというと、必ずしもそうではないでしょう。

 習い事や旅行の経験が少ないからといって、その子の人生が欠陥品になるわけでは決してありません。ある子にとっては、高級なサマーキャンプよりも、近所の公園で泥だんごを光らせることに没頭した時間のほうが、はるかに深い自己発見をもたらすかもしれません。

 むしろ、体験消費社会という見えない檻に閉じ込められていることに無自覚なまま、スペックの積み上げに奔走させられる子どもたちのほうこそが、常に「いま」を奪われるという意味で現代社会の被害者といえるかもしれません。

メディアまでもが罹患している功利主義的教育観

 クラウドファンディングやふるさと納税のしくみまで利用した寄付金や、自治体の予算など、親の財布だけでなく社会のお金にも手を伸ばす“体験格差ビジネス”が勃興しています。善意によって集まったそのお金は、結局“体験プロバイダー”の懐に収まります。

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