<span>民族派青年たちが憲法破棄論を捨てた日 高市首相応援団「日本会議」が歩んだ半世紀</span>

首相が祝辞を寄せた「50年」の集い

 日本会議(谷口智彦会長)と日本会議国会議員懇談会(古屋圭司会長)が今年9月下旬、国民運動50年と設立30年を祝う集いを都内で開いた。高市早苗政権の誕生から1年。応援団である日本会議への注目度も再び高まりを見せているようだ。彼らが言うところの「国民運動50年」という長いレンジで、運動を形づくってきた人々の今昔を再検討してみたい。

 集いは神社新報といったインナー限り。報道関係者の立ち入りはお断りだった。

 日本会議などによると、政治家や会員ら約1700人が集まったという。筆者が取材で得た集いの流れは以下のようなものである。冒頭、前身の一つ、日本を守る会(1974年結成、以下、守る会)以来の運動史を映像で振り返った後、日本会議副会長の田中恆清・神社本庁総長が開会あいさつ。谷口、古屋両会長に続いて、有村治子参院議員が高市早苗・自民党総裁名の祝辞を代読した。

「国民運動50年という大きな節目を迎えた今、先人の皆様が築いてこられた尊い歩みと成果をしっかりと受け継ぎ、次の新たな50年の未来に向けて、皆様、共に力を合わせてまいりましょう」

 日本会議は1997年、宗教者らが呼びかけた守る会と、学者・文化人、経営者、宗教者らによる日本を守る国民会議(81年結成)が合併して誕生した。会長に内定していた作曲家の黛敏郎氏が急逝したため、ワコール創業者の塚本幸一氏が初代会長に就任。元日商会頭の稲葉興作氏、元最高裁長官の三好達氏、外交評論家の田久保忠衛氏と続き、安倍晋三元首相のスピーチライターを務めた谷口氏が2025年、新会長に就いた。事務総局は新宗教「生長の家」の出身者が多い日本協議会(日本青年協議会=日青協=の包括組織)が担当している。

 国民運動50年――。高市氏の祝辞にあったとおり、彼らの運動は長きに及ぶ。その間、昭和天皇の在位50年奉祝、元号法制化、首相の靖国神社公式参拝推進、高校日本史教科書の発行、現上皇陛下の天皇即位奉祝、終戦50年謝罪決議反対、国旗・国歌法制定、教育基本法改正、選択的夫婦別姓導入反対、外国人地方参政権反対……と続き、直近では皇室典範改正で、国政への影響力を発揮してきた。

 そもそも運動の先達はどんな人々で、何を思い「日本立て直し」に立ち上がったのだろうか。

「日本を守る会」とは何か

「日本は経済的繁栄の中に精神が衰亡し、まさに興亡の瀬戸際に際会している。今こそ、宗教家は結束して立ち上がらなければならない」(富岡盛彦・元神社本庁事務総長=現在の総長)

 1974年4月、富岡氏らの呼びかけで守る会の結成総会が開かれた。富岡氏に続いて、歴代総理の指南役、安岡正篤氏が基調講演した。

「悪党は一人でも悪党と言われ団結性をもっている。それに比べて善人は善党と言われないように孤立的、傍観的である。従っていつも悪党に機先を制せられる。今日必要なことは善人が団結し、勇気と自信をもって民族の道義を回復することであり、このたび我々が日本を守る会に結集した意義は甚だ大きい」

 両氏に加え、明治神宮の伊達巽氏、世界真光文明教団の岡田光玉氏らが都内で懇談するようになったのは結成1、2年前だ。日本は復興をみたものの、国民は国家への帰属意識や民族として連帯感を失っている、拝金・唯物主義、利己主義に走り、次代を担う子供たちの育成が危ぶまれると各々が憂国を語り、新組織への気運が醸成されていったようだ。

 中心は鎌倉・円覚寺の高僧、朝比奈宗源氏だった。朝比奈氏は、各国が主権の一部を譲り合う世界連邦を作ることを目的とした世界連邦運動に長く関与してきた。第二次大戦後に起きた運動で、アインシュタインやチャーチル、湯川秀樹氏らも賛同者となっている。その世界連邦伊勢大会で神宮に参った際、「お前たちは世界だ、人類だと騒いでいるが、足元の日本を見よ。音をたてて崩れているではないか」と天啓があったという。衝撃を語る同氏に共鳴したのが富岡氏だった。伊達氏や生長の家の谷口雅春氏らに協力を求めると、結成までは一気呵成だった。

 守る会事務総長を務めた副島廣之氏(明治神宮)の回想録などによると、代表委員に名を連ねたのは朝比奈、富岡、伊達、谷口、安岡、岡田といった前出の御仁のほか、山岡荘八(作家)、相川高秋(日本キリスト教協議会)、白柳誠一(カトリック東京教区)、岩本勝俊(総持寺)、金子日威(池上本門寺)、清水谷恭順(浅草寺)、関口トミノ(佛所護念会教団)、蓮沼門三(修養団)の各氏と、監事に廣池千太郎氏(モラロジー研究所)ら。キリスト教の相川、白柳両氏は都合により代表委員を辞退したと追記されているが、それでも神社、仏教、新宗教、社会教育団体、文壇の面々が勢揃いしたインパクトは大きかった。

 基本運動方針にはこうあった。

《わが国の伝統精神に則り愛国心を高揚し、倫理国家の大成を期する/正しい民主主義を守り、明るい福祉社会を建設する/偏向教育を排し、ひろく教育の正常化を推進する/言論報道の公正を求め、唯物思想や独裁的革命主義を排除する/国際協調の中にあらゆる世界平和の道を求め、祖国日本を守り抜く》

続く懇親会は相川氏発声の万歳三唱で散会。一般紙にはほとんど載らなかったが、反共の国民新聞は「強大な革命阻止国民運動機構」の誕生と報じ、「左偏向した日本の潮流は大きく流れを変えることになる」と書いた。50年たってみれば、「ご祝儀記事」とばかりは言えない右派・保守派の活況が日本社会を覆っている。

とっかかりは元号に

 最初の大仕事は田中角栄首相との面会だった。結成の翌月、朝比奈、富岡、伊達、相川、副島の各氏らが官邸を訪ね、時局を正すための要望書を手渡した。

一、わが国の伝統精神に則り愛国心の高揚をはかること

一、国および国民統合の象徴である天皇の尊厳と名誉を傷つける言論、出版に対し、国法上の適切な処置を講ずること

一、国旗、国歌、元号の法制化など、国の公式制度を確立すること

一、物質偏重の風潮を是正し、宗教的情操を基とした道徳教育の振興をはかること

一、偏向教育を排し、教育の正常化につとめること

 夏に参院選を控え、国旗、国歌、元号、偏向教育の是正、徳育などは、自民党の選挙戦略に反映された。戦後、法的根拠を失っていた元号の法制化はしばらくして一大政治課題となり、会は元号法制化実現国民会議(石田和外議長=元最高裁長官)の設立母体になったこともあり、革新陣営から「反動勢力の総司令部」として警戒されるようにもなった。同時に、1979年の元号法制定で役割を終えた国民会議は、日本を守る国民会議(加瀬俊一議長=元国連大使)に看板をかけ替えて再起動した。

 先述のとおり両組織は1997年、日本会議に一本化される。平成期初頭の政界再編で創価学会を母体とする公明党が連立与党入りしたことへの対抗など、複合的な事情に加え、両組織とも初代事務総長を副島氏が務め、組織運営を日青協に負うていたことが合併の決め手となった。

 日青協は1970年、民族派社会人組織として出発した。椛島有三氏(後の日本会議事務総長)を中心に生長の家学生会全国総連合(生学連)のOBらが結集。当初、教祖の谷口氏が主唱する「憲法無効・破棄」を中核に据えていたものの、元号法制化運動に加わる段階で「憲法改正」をめざす現実路線へ方針転換。その路線変更は本稿の後段で詳述するが、そうして臨んだ元号の運動で、守る会のお歴々らから信用を勝ち取り、組織として大きな飛躍をとげることになった。

 1980年の日青協結成10周年記念式典で、副島氏は元号法をめぐる働きを労い、おおむねこんな祝辞を述べた。

「着想のよさと申しましょうか、全国県市町村にわたる元号法制化の決議運動、これが非常に功を奏したように思います。私はそういう発想をすることができませんでした。やはり若い頭、柔軟な頭脳はすばらしい。みなさま方がいらっしゃらなければ、去年6月6日をもって元号法がめでたく成立することには至らなかったのではないか。心から感謝を申し上げる次第でございます」

 決議運動とは、全国の地方議会で「元号法の早期成立を求める」意見書を決議するように促し、圧倒的な決議数をもって東京に攻め上がる、そして政府・国会を動かすという日青協が得意とする政策実現の手法だ。

のどかだった日本会議

 それから四半世紀後の2004年、日本会議による「教育基本法改正を求める中央国民大会」が都内であった。早期改正を求める意見書が全国で決議されたことが紹介され、最多の熊本から県議が代表して登壇した。熊本は日本会議の活動が活発で、筆者は朝日新聞社在籍中、理由を取材すべく日本会議熊本を訪ねたことがあった。

 熊本県護国神社内の事務局で、理事長らが応対してくれた。全国一の理由を理事長はこう答えた。

「昨春、県と熊本市を通したのが効いた。いなかは『県で上げた』というと、信用度が増します。議員も、国家問題にかかわる意見書採択に携わると、意識が国家と直結して、『自分がやれば』となるようです」

 普段、道路や上下水道など、地域の困りごとの解決に走り回っている市町村議が国の教育政策や防衛といった意見書に関わることで、政治意識が一気に国家と結びつく。日本会議の呼びかけにも自発的に動いてくれるようになるという。北朝鮮ミサイルへの抗議、国旗・国歌法制定と少年法改正、中国でのサッカーアジア杯の騒動では強力な外交措置を求める意見書採択を議会に働きかけてきたことが威力を発揮したとの説明だった。

 「うちの会長名で声明を出してもあまり効果がないので、議長名で政府に意見書を出してもらう。国民の共感をえて、議会に理解を求める。旧来の右翼運動とは、考え方も運動方法も違います」(理事長)。

 ともすれば、尖った一つの声として捨ておかれかねない自分たちの意見を、民主主義のシステムに乗せ、地域の、県民の、国民の世論へと高めるということだ。

 事務局長ら3人からも話を聞けた。彼らは、小泉訪朝以降、理解が急速に広がった様子を異口同音に語った。大学のサークルで日本文化を学び運動に飛び込んだという男性職員はこう話した。

「ノンポリの兄でさえ、靖国などで、中国に何で言われなくちゃいけないんだ、と普通の感覚をもつようになった。国民の意識は変わりつつあると実感しています」

 事務局長も続けた。

「少年犯罪の多さも契機になった。日教組の教育がいかに日本を悪くしたか、そう感じる人々がとても増えました」

そして、朝日新聞などの論調を厳しく批判した。

「今の日本が左に傾きすぎているから、私たち中道が右翼と言われる。国を愛する気持ちを語るほど、右翼だという。当たり前のことを話すと、ナショナリズムだという。国を愛せないのなら、何で日本に住んでいるんですか」

 ちなみに朝日新聞社は思想集団じゃないので、とクギを刺すと、「そんなことないでしょう。みんな共産党員だと思っていますよ!」と即座に返ってきた。

 なるほど、朝日でも、日本会議を行動右翼と同一視している政治部デスクが、筆者の日本会議に関する原稿を通そうとしないことに、社会部長が抗議するといったことがあった。それを考えれば、誤解はお互いさまなのだが、この原稿を書いていて、あの時代の日本会議を思い出した。熊本は以上のとおり牧歌的だったし、東京でも靖国神社での学習会に入れてもらえ、運動をまとめた資料までくれた。

葦津珍彦の雅量

 それがなぜ、50年を祝う会をクローズドで行うようになったのか。

 転機は10年前の日本会議バッシングだろう。2016年に刊行された『日本会議の研究』(菅野完・著)がベストセラーとなり、日本会議への注目度は一気に増した。日本会議は安倍政権をも動かす危険な組織という認識が一般に広がる。

 以来、急にガードが堅くなった。それでも、設立20周年記念大会(2017年)は会場で取材できた。そしてとうとう、冒頭の「30年の集い」では報道陣がシャットアウトになった。事務方の判断なのか、加盟有力団体の強い意向なのか。いずれにせよ、内向きになった印象は拭えない。

 さて、さきほど、日青協の飛躍の理由として、憲法破棄を捨て憲法改正への新方針で臨んだ元号法制化実現運動の成功を挙げた。その転換を促した神社神道界のイデオローグ、葦津珍彦氏の話を紹介して本稿を終わろうと思う。

 葦津氏は戦前右翼、頭山満氏の最晩年の弟子で、占領下の神社界生き残りに奔走した代表的神道家だ。氏は1974年夏、生長の家学生合宿に出講した際、教団が現憲法の欠陥を精力的に訴えていることを高く評価しつつも、その弊害を概ねこう指摘した。

「怪(け)しからぬ憲法だから無効を宣言せよ、廃棄せよ、こう迫って行ったほうが論理的にははっきりしていいと云う人がある。憲法が改正されるまで何もできないという立場のほうがすっきりしていいという。これは青年の議論として、非常に直截簡明であって観念的議論としてははなはだ明快だとも思うが、私は決して同感致しませぬ」

「たとえ同感したとしても、現実の政治はそんな議論では動かない。実際政治を、そういう議論で放任しておいたら日に日に悪くなるに決まっておる。憲法解釈は反日本的な左翼論のみが無抵抗で横行し、立法では悪法が増え、裁判はいよいよ反日本的判決のみが下り、国民精神は混乱の度を増し、良識的国民の自信と意気を喪失させるだけになってしまう」(日青協機関誌『祖国と青年』1974年11月刊)

 その頃、内閣法制局幹部が国会でこう答弁した。

「昭和という元号は法律上の基礎はなく、慣習として用いられている」「陛下に万一のことがあれば、昭和という元号がその瞬間に消え、空白の時代が始まる」(1975年3月18日、衆院内閣委員会)

 日青協は震撼した。昭和天皇はすでに70代。天皇と国民の紐帯である元号が空白になりかねない事態が近づいている。その切迫感から、葦津氏の考えに沿った大転換をはかる決断をした。これまでのように現憲法は無効だ、破棄せよと叫んで回るのではなく、現憲法の解釈・運用に重点をおき、有利な状況を一つずつ勝ち取ることが重要だ。運動を積み上げ、憲法改正に向けた状況をつくる。それが日本精神回復への早道だ、彼らはそう考えた。

 そこで現実的な目標として掲げられたのが元号法制化である。こちらは多くの支持を得て、素早く法制定までこぎつけたのは前述の通り。葦津氏が民族派青年たちを幅広な運動家に変えたのだ。

 リベラリストが数多く集った言論誌『思想の科学』(1968年6月号)に哲学者、鶴見俊輔氏による葦津氏のインタビューが載っている。東京裁判について、葦津氏はこう述べている。

「裁判などと言わずに、戦争の明らかな継続として、つまり、戦闘するのだ、懲罰するのだという姿勢をとるならば、あれほど嫌な感じはしなかったと思う。それを公平な文明の裁判だという偽善が不愉快だった。戦中は、東条首相は当然裁判にかかるべき犯罪人だと信じていたが、裁判が始まると、だんだん弁護人的な気持ちに変わっていったんです」

 また、戦後右翼について、「戦後の右翼は帝国とともに大きな惨敗の記録をもっている。これをしっかりと自己批判したうえで再出発するのでなければ将来はないのです。ところが、公職追放以来、右翼に対する中傷と非難が集中したために、それへの対応、自己弁明に忙殺されて、いつまでも本格的な過去の歴史に対する厳しい自己批判が行われない。前進がないわけなんだ」と苦言を呈してもいる。

 そうした葦津氏との交わりを、鶴見氏は「葦津珍彦―日本民族を深く愛した人」(『思想をつむぐ人たち 鶴見俊輔コレクション 1』)という一文でこう書き残している。葦津氏が晩年、京都の鶴見邸を訪れたときのこと。

 葦津氏は「近いうちに死ぬと思うので、あなたに言っておきたいことがある。敗戦と米軍占領をむかえて、これから自分は天皇の弁護人になろうと思った。弁護人の役割を自分で引き受けたからには、被告について不利なことは言わない。だが、天皇のもつ悪い面をしらないということではない。このことを、あなたに言っておきたかった」「あなたとのつきあいのあいだ、私は、あなたの書かれたことを一度も引用したことはない。それは、私に引用されることで、あなたに迷惑をかけることを避けたからだ。この二つのことだ」と話したという。

 もともと、多元主義をうたう『思想の科学』誌が天皇制積極支持者らと対話の機会をもとうとしなかったことに不満を感じた元編集長の市井三郎氏が権力、金力によりかかっていない人を探したところ、条件を満たしたのが葦津氏だった。明治百年の頃、明治維新の共同研究が始まると、葦津氏も加わり、月一の勉強会は無類の楽しさだったと、鶴見氏は記す。

「葦津さんは反対側の批判に耳を傾ける雅量を示し、つつみかくさず自分の意見をのべた。ここでは、天皇制の弁護人としての役割を守るという、公の席上での話し方をとらなかった。彼は仲間の誰もが信頼できる右翼言論人だった」と結んでいる。

 翻って、葦津氏から教えを受けた人々が事務方を担う日本会議はどうだろうか。匍匐(ほふく)前進、石を一つずつ積み上げて築城するような作業を続けてきた彼らがきまじめな集団であることに疑問は挟まない。ただ、鶴見氏が葦津氏に見た「雅量」はどうだろう。

 彼らが悲願とする憲法改正の国民投票は、投票総数を6000万票と見積もると3000万票超の賛成が必要だ。実現のために多様な意見の人々と交流し、人間関係を築こうと草の根運動が全国で続いている。それゆえ、先人からの半世紀におよぶ国民運動の節目の祝いを「内輪の集会」としたのは、実にもったいないことをしたものだと筆者は思うわけである。

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