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Vol. 2

「官邸は和気あいあいとしていた」「媚中というレッテル貼りは無意味」――総選挙敗北以降、何が起きていたのか

2026年6月22日


<span>「官邸は和気あいあいとしていた」「媚中というレッテル貼りは無意味」――総選挙敗北以降、何が起きていたのか</span>
石破茂氏

石破茂氏の首相在任時代を振り返る連続インタビュー、第2回目は衆議院選挙での敗北から2024年末までについて語ってもらった。少数与党となったことから、この頃、政権へのネガティヴな報道は今まで以上に増える。「もう降板すべきだ」「外交の場でのマナーがなっていない」「途方に暮れて何をしていいかわからなくなっている」等々。しかし、いずれも事実や当人の受け止め方とは全く異なるものだったという。

少数与党になっても変えなかったこと

――前回のインタビューでは2024年の自民党総裁選からの2か月ほどを振り返っていただきました。今回は総選挙(同年10月27日)から2024年末までの2か月間について伺っていきます。
 あまり振り返りたくない話題なのかもしれないですが、ともあれ総選挙によって衆議院では少数与党となりました。これによってご自身の考え方や内閣の方針はやはりかなり変わったのでしょうか。

 特には変わらなかったですよ。選挙前の、衆議院で多数を持っている時も、国会、特に委員会は説明の場だと考えていました。質問や審議の時間は議席配分によって変化しますから、野党の質問に答える時間が増えただけのことで、もともと丁寧に説明しようという考え方でしたから、まったく変わるものではありませんでした。

――国会で丁寧な議論をしなければならないというのは石破さんの長年の持論ではありますよね。国会質疑、とりわけ予算委員会では「本質的な議論」をすべきだ、といった文章が著書『異論正論』にはあります。ただ、あの局面でそういう正論を言っても、偽善だとかカッコつけているだけみたいに受け止められる懸念などはなかったんでしょうか。

 どう受け止められるかはこちらで操作できませんからねえ。私の言っていること、考えていることは昔から変わっていませんけど。

――世間では「このままでは政権運営がうまく行かず、追い込まれてどうせすぐ辞めるだろう」という観測も出ていましたよね。辞めようなどとは思わなかったのですか。

 比較第一党ですから、政権を他の党に譲り渡すということは、もとより考えられないことです。自民党の中では、責任取れ、みたいな話が出るかもしれないとは思いました。

 選挙に負けてすぐに政権が変わったというのは、私の記憶だと、宇野(宗佑)さんと橋本(龍太郎)さんが大敗して辞めた時くらいではないでしょうか。

 宇野さんの場合は、主な理由はスキャンダルでしたからね。 橋本さんの場合には、消費税についての発言が途中でぶれたのが大きかったのかな。

 私のときは、やっぱり解散のタイミングが早すぎたのだろうと後から考えれば思います。総裁選挙の時にはきちんと本会議と予算委員会をやってから解散すると言ったのに、結局は党首討論だけやって総選挙に突入してしまいましたから。そこはちょっと……いやすごく悔いているところです。しかし前回もお話しした通り、党内で国会を開いてから解散することに賛成してくれる人はいませんでしたから、実際にできたかというと、できなかったんじゃないかな。

 ともあれ、スキャンダルがあったわけでも、政策が変わったわけでもないし、比較第一党である以上、常識的には他党に政権が移るという状況ではなかった。だから辞めなきゃいかんとは思わなかったですね。

――「最短政権」になるのでは、といった見立てを書いているメディアもありましたが。

 そうですね、でも私はそんな感じは全くしていませんでした。まあ、そうしたい、あるいはそうさせたい人たちがいたんでしょう。そういう感じは今まで連綿と続いていますし。

――比較第一党というものをどう考えればいいのか、という点について実は政治家もメディアも考えが整理できていなかったようにも思います。そこはどうなんでしょうね。

 原則としては、比較第一党党首が首班指名を受けるということになるのでしょう。それは「ようやく比較第一党」というのではなく、「過半数に近い比較第一党」という場合には、ということだろうと思います。

――論理的にはその通りでしょうが、当時はこのまま政権交代もありえるかのような雰囲気も出ていたように記憶しています。あるいは自民党の政策が全否定されたかのような感じとでもいいましょうか。
 そんな状況で国民民主党との協議が始まります。公明党の代表は石井啓一氏から斉藤鉄夫氏に代わりました。また先ほど、政権の方針その他は変わらないとは仰いましたが、実際には周囲の状況は大きく変わったわけですよね。この変化はどう捉えていましたか。

 うーん、だから、自公で過半数を割った以上、どこかと協力をしないといけない。それで一番政策が近いのは、国民民主党だろうと考えたわけです。

 私はそれまでそんなに国民民主党との付き合いがあったわけではなかったのですが、憲法調査会で、毎回のように玉木(雄一郎)さんが熱心に発言をしていたのは知っていました。彼の政治的なスタンスは自民党に近いっていうよりも、私に近いなとも思っていた。だから国民民主党と連立はなくても連携は当然ありだと思いましたね、うん。

 公明党の石井さんは、お互い野党の頃に政調会長同士で、その時からお付き合いもありました。人格も立派な人です。だから交代は残念ではあるけれども、公明党内の理由があったのでしょう。

 むろん、そのあとに就任した斉藤さんも立派な方だと思っていましたから、協議に支障が出るようなことは全くありませんでした。

――少し話が先に進みますが、高市政権が生まれて直後、斉藤さん率いる公明党が連立から離脱しました。それは石破さんとの間に特別な絆でもあったから、というような事情でもあるのかな、とも想像したんですが、どうなんでしょうか。

 いや、あの離脱について斉藤さんとは何ら話はしていません。

 ただ、斉藤さんとは同じ中国地方選出という共通点があり、鳥取に度々来られていたこともありました。また、麻生内閣では斉藤さんが環境大臣で、私が農水大臣でしたし、閣議の時に席が隣だったりと、折に触れてご縁をいただいていました。だから石井さんの後に斉藤さんになったことは私にとっては嬉しいことではありました。

――石破内閣において公明党との関係は良好だったのでしょうが、一方で、たとえば憲法についての考え方は合わないですよね。そのへんは切り離してつき合うということになるのでしょうか。

 うーん、やはり公明党さんには創価学会という大きな支持母体があるわけですよ。党の意向もさることながら、平和というものについて創価学会には確固とした考え方があり、創価学会の方々に私の憲法観などをご理解いただくまでの道はすごく遠いと思っていました。だから、そういうことについて議論はしなかったですね。

――その種の議論はあえてしなかった、と。

 しなかった。

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