「言葉」が先行すると「感覚」からの学びがおろそかに
〈先だって米国では、幼少時からのSNS依存でうつ病を発症したとする20歳の女性がメタとグーグルを提訴。3月25日には、両社に巨額の賠償金支払いが命じられている。
国内では4月22日、総務省が有識者会議を開催。6月2日には報告書案がまとまり、年齢による一律制限は見送られたものの、SNS事業者には年齢確認の厳格化を求めることになった。同案は夏ごろ正式決定するという。〉
現代の人たちは「感覚」でものを捉える力が衰え、そのせいで思考がすべて「言葉」から始まってしまう。それは危険なことであると、私はこれまで述べてきました。
というのも、感覚とは人それぞれで異なり、それを共有するために概念、すなわち言葉がある。感覚があって次に言葉があるという順序が成り立たなくなると、言葉の有難さが分からなくなります。結果、言葉が伝わって当たり前だと思い込み、少しでも通じないと不安に襲われてしまう。または通じないことで苛立ち、攻撃的になる。その傾向が顕わになったのがSNSだと思います。
私は大学で解剖を教えていましたが、講義は年に1度だけで、あとは基本的に実習にしていました。私があれこれ喋るより、学生が遺体と向き合う時間が長くなる方がいいと思ったからです。
ところが次第に「解剖というのは古臭くて面倒な作業だから、CT検査を使えばいい」という風潮が強くなってきた。画像と実際の遺体を目にするのとでは、学ぶものが全然違います。ただし、それは生の材料から“何か”を身につけていく作業であって、言葉で説明できるものではない。その“何か”が説明できるのであれば、初めから生の材料など要らないわけです。
ではCT検査によって何が失われてしまうのか。その問いに答えるとなると、まさしく“言葉で説明できる”という前提に立ってしまうことになります。そうではなく、私が実習を重視したのは説明など一切せず、遺体と対面して学んでもらうためだったのです。「言葉」が先行してしまえば、どうしても「感覚」から学ぶというプロセスがおろそかになる。
たとえばテレビに映っている映像は、カメラマンの視点でしかない。我々はすでに人の言ったこと、人の頭の中を一回通したものに触れ、それを共有しているに過ぎません。現代では、人の目を通さない「自然」や、「人でないもの」と純粋に触れ合う時間がほとんどなくなってきています。
SNSの利用も、それ自体が必ずしも悪いとは言い切れません。問題は、どのように接し、どれほど時間を費やすのかという点です。
オーストラリアの事例がそのまま当てはまらない理由
オーストラリアは昨年、16歳未満のSNS利用を禁じる法律を世界で初めて施行しました。かつて現地に1年ほど住んでいたことのある私が、この措置を「無理もない」と感じるのは、あの国が「自然」との接触が多い社会だからです。
日本は、可住地面積あたりの人口密度が極めて高い。つまり「人の顔」ばかりを見ながら生きている人たちによる社会です。狭い国土に人が大勢いるわけだから、ものを見るより人の顔を見て、みんなと同じようにしている方が安全だということになる。だから日本社会はSNSへのアフィニティ(親和性)も高いのです。
実際にXの国別利用時間を見ると、日本が圧倒的に多い。世界中のネットは日本人が半分以上使っていると言われるくらいです。
それに比べ、オーストラリアの人はもっぱら「自然」や「もの」を見て暮らしている。私がいた50年以上前は、あの広い国土で人口はわずか1300万人ほどでした。今はその2倍以上に増えていますが、それでも人は少ない。あちらは「人の顔ばかり見ていても生きていけない」社会であり、もっと「もの」に直面しないとやっていけないのです。
当時、私の乗っている車はしょっちゅう故障していました。日本だったら助けを呼び、あるいはスタンドに持って行けばいいと考えますね。人に頼ることで何とかなるわけですが、オーストラリアは数十年前まで、砂漠の真ん中で車が壊れたら自分で直すしかなかった。ものを相手にしないと生きていけない。だから彼らは「SNSばかりやっていたら社会が成り立たない」「そこまで人に付き合う必要はない」ということを熟知しているのです。
ものに付き合うことで生活が成り立っている。これを国民が共有しているからこそ、「子どもにも共有させなければ」となる。政府が子どもたちのSNSを禁止したのもうなずけます。