連載|経済・ビジネス

Vol. 2

AIを導入しても、なぜ現場は動かないのか

2026年8月25日


<span>AIを導入しても、なぜ現場は動かないのか</span>
(Chebanu Natalia/Shutterstock)

AIを導入しても、現場は思うように使ってくれない。多くの経営者は「社員のリテラシー不足」が原因だと考えるが、本当の理由はそこにはない。産業革命期のラッダイト運動から最新のAI研究までを辿ると、技術が受け入れられるかを決めるのは性能ではなく、その果実が誰に分配されるかだったことが見えてくる。そして、その取り分を設計した先にも、落とし穴がある。

産業革命下の機械打ちこわしは、技術への反発ではなかった

 前回、私はAIの議論に欠けているのは損得の計算だと書いた。AIに何ができるかではなく、いくらの悩みを、いくらで解決するのか。その引き算から始めよ、と。

 だが、引き算が済んでも動かないものがある。現場だ。

 経営者とAI導入の話をしていると、経営者が必ず同じ悩みに突き当たっていることがわかる。

「ツールは入れた。研修もやった。それでも現場が使ってくれない」

 多くの経営者はこれを現場のリテラシーの問題だと診断する。使い方がわからないのだろう、と。だから研修を増やし、社内勉強会を開き、活用事例を配る。それでも現場は動かない。

 診断が間違っているのだ。

 現場がAIに乗ってこないのは、賢さが足りないからではない。使った先の取り分——評価、時間、将来の仕事——が設計されていないからだ。そしてこの「誤診」には、200年の歴史がある。

 19世紀初頭、産業革命下のイギリスで、織機を打ちこわす労働者たちがいた。ラッダイト運動である。教科書では「技術の進歩を理解できない労働者の暴動」として扱われがちだが、この理解は間違っている。

 オックスフォード大学の経済史家カール・B・フレイは『テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス』(原題 The Technology Trap、村井章子他訳・日経BP、2020年)で、技術には2種類あると整理した。人の仕事を助ける補完型と、人の仕事を置き換える置換型である。どちらが優れているという話ではない。受け入れられ方がまるで違う、という話だ。補完型は歓迎され、置換型は反発される。

 そして興味深いことに、同じ蒸気機関についてのイギリスの現場の反応は途中で180度変わった。当初は打ちこわしをするほど機械に否定的だった現場が、途中から歓迎に回ったのだ。

 経済史家ロバート・アレンが2009年の論文「エンゲルスの休止——英国産業革命における技術変化、資本蓄積、不平等」("Engels' Pause: Technical Change, Capital Accumulation, and Inequality in the British Industrial Revolution"、Explorations in Economic History誌)で整理した推計によれば——推計値であることは断っておく——産業革命前半の1780年から1840年までの60年間で、労働者1人あたりの産出は46%伸びた。ところが実質賃金は12%しか伸びていない。生産性の果実はどこへ行ったのか。利潤である。アレンは書いている。「利潤率は倍増し、国民所得に占める利潤の割合は、労働と土地を犠牲にして拡大した」。アレンはこの時代を「エンゲルスの休止」と名付けた。価値は生まれていたのに、働く人に回らなかった時代である。機械打ちこわしが起きたのは、まさにこの時期だ。

 だが、後半の1840年から1900年は違う。産出は90%伸び、実質賃金は123%伸びた。産出の伸びを、賃金の伸びが上回ったのだ。そして労働者は機械を受け入れた。

 では、後半で何が変わったのか。機械が優しくなったわけではない。アレンは、技術の進歩に遅れていた資本蓄積がようやく追いつき、生産性の伸びが賃金に波及するようになったと説明する。フレイはこれに加えて、労働者が政治的な発言力を持ったことを重視する。原因は1つに絞れない。確かなのは、生産性の果実が働く人へ届く経路が、60年遅れでようやくつながったということだ。同じ技術でも、取り分の回路がつながれば受け入れられ、つながらなければ壊される。

 これは古い話の掘り起こしではない。2024年にノーベル経済学賞を受けたダロン・アセモグルは、サイモン・ジョンソンとの共著『技術革新と不平等の1000年史 上下』(鬼澤忍他訳・早川書房・原題 Power and Progress、鬼澤忍他訳・早川書房、2023年)で、1000年分の技術史を検証してこう結論づけた。生産性の果実が働き手に共有されるのは自動的な現象ではない。分配を求める対抗力が働いたときだけだ、と。技術は放っておけば取り分を偏らせる。これが経済学の到達点である。

 つまりラッダイト運動は、技術への反発ではなく、取り分への反発だった——これがフレイの読み解きである。成果が自分に回る保証がないなら、抵抗は合理的な判断である。壊された織機に罪はない。壊れていたのは分配だった。

 これを現在に置き換えてみよう。経営者が「AIで工程が消えます」と言った瞬間、現場にとってそれは技術の話ではない。自分の取り分の話である。消える工程に紐づいていた評価、残業代、居場所。それらがどこへ行くのか、誰も約束してくれない。ならば様子を見るのが合理的だ。イギリスの労働者は、取り分が回ってくるまで60年待たされた。あなたの会社の現場は、60年待つ気はない。かといって、織機を壊すような派手な抵抗もしない。現代の抵抗はもっと静かだ——経営が鳴り物入りで入れたAIを、ただ使わない。それだけだ。

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