<span>「言ったもん勝ち」はなぜ横行するのか——コンプラ過剰社会を生んだリベラリズムの矛盾</span>

特集|社会

Vol. 3

「言ったもん勝ち」はなぜ横行するのか——コンプラ過剰社会を生んだリベラリズムの矛盾

2026年9月18日

「コンプライアンス違反」という言葉が社会のあらゆる場所に飛び交う時代になった。批判の対象はとめどなく拡大し、誰もがいつ「加害者」のレッテルを貼られるかわからない緊張感の中で生きている。「コンプラ」という錦の御旗のもとバッシングが正当化され、横行する——この居心地の悪さの根本にあるのは何か。作家の橘玲氏が解き明かす。

「コンプラ違反」を拡大するリベラルな社会

 最近は社会の“右傾化”を憂える声ばかりですが、私は日本も世界も巨大な「リベラル化」の潮流に飲み込まれていると考えています。ここでのリベラルの定義は「自分らしく生きることは素晴らしい」という価値観であり、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくるべきだ」という政治運動です。

 社会が「リベラル化」すると、出自や人種、性別、性的指向など、本人の意思では変えることのできない属性による差別はものすごく嫌われるようになりました。東大の女性教授が皇族女性の「遺伝的要因」について触れたSNSの投稿に対して、右派・保守派がいっせいに「差別だ」と批判したことからわかるように、これはいまでは社会の基盤になっています。もはや誰も、差別を正当化することはできないのです。

 当然のことながら、「私は自分らしく生きる権利があるけれど、あなたにはその権利はない」と言うことはできません。リベラリズムの大前提は、すべての個人が平等に「自然権としての自由(リバティ)」をもつことです。ここまでは誰もが同意するでしょうが、個人の利害は対立するので、すべての人が「自分らしく」生きようとすれば、必然的に社会のいたるところで個人と個人が衝突するようになってしまいます。

 近代の啓蒙主義が真っ先に否定したのは、貴族と平民というような身分による差別でした。それに対して、第二次世界大戦の前までは、建前としてはリベラリズムを唱えても、人種や性別、性的指向による差別は見て見ぬふりをするか、必要悪として正当化されてきました。

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