特集|社会

Vol. 12

テルアビブまでの旅――「テルアビブ空港乱射事件」実行犯・岡本公三は51年前の手記で何を語っていたのか

2026年9月23日


<span>テルアビブまでの旅――「テルアビブ空港乱射事件」実行犯・岡本公三は51年前の手記で何を語っていたのか</span>
イスラエルの刑務所で食事をとる岡本公三(1985年3月24日)

殺人などの疑いで国際手配され、レバノンで亡命生活を送っていた「日本赤軍」のメンバー・岡本公三が、今年7月23日に死亡した。同月24日に葬儀が行われ、遺体はベイルート郊外のパレスチナ人の合同墓地に埋葬された。また翌25日には岡本容疑者を支援していた過激派組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の幹部らが集まる追悼行事が行われた。岡本は1972年、イスラエル・テルアビブのロッド空港で仲間2人とともに銃を乱射、手投げ弾を爆発させ、死者24人、負傷者76人が出た。岡本が27歳当時の1975年、イスラエルで終身刑の判決を受け服役中に『週刊新潮』に寄せた手記を再録する。

※本稿は「週刊新潮」1975年8月28日号に掲載された特集を元に再構成したものです。また、年齢や肩書、年代表記等は当時のものです。

「いまの私がよく考えるのは神のことである」

 独房の窓からは、中庭と、その向うにコンクリートの地肌の色をした灰色の建物が見える。独房は六畳ほどの広さで、ベッドと机と便器がある。私はその机に向ってよく聖書を読む。

 以前は同じ刑務所(註=ラムラ刑務所。以下の註はすべて編集部)でも、重要犯人用の特別の独房にいた。アイヒマンなどが入れられていたところだそうだ。房の前には、武装した看守がいつも詰めていた。

 初めは、その房の中で両手両足を拘束されていたが、その後、両足だけになった。だが、便所へ行くのにもいちいち両足のカセの錠を外さなければならず、なかなか思うようにならないしで、私は一度、空手のマネをして見せたことがある。というのは、房の中にもイスに座っている看守が一人いて、いつも私を見張っているのだ。彼に向って手刀で床をたたいたりして見せたら効果はテキメン。その看守は、私の房の勤務から外してくれるよう、上司に願い出たそうである。

 むろん、それはずいぶん前のことだ。いまいる独房で、私は毎朝七時に起きる。八時に朝食。読書したり、英語とヘブライ語の勉強をしたり――。昼食後は散歩の時間があり、夕方シャワーを浴びるのが日課である。

 夜になって、刑務所の有刺鉄線が風鳴りの音を立てると、よく思い出させられたものだ。ロシア製歩兵銃クラシニコフの立てる風鳴りの音は、少なくともわれわれ三名(註=奥平剛士、安田安之、岡本)には物悲しい思いを引き起させた。私自身は夜哨の経験はないけれども、一人で異国の「軍事訓練」に身を投じた奥平同志にとっては、とりわけ思い出深いものだったと思われる。「風の強い日に持っていく銃はクラシニコフ」という言葉どおり、一挺しかないクラシニコフを肩にかつがされて、野原を走りまわったことを思い出す……。

 しかし、いまの私がよく考えるのは神のことである。神の道を歩むことは、ある確定した神の道があるということではなくて、むしろ生身の人間の苦闘の中で、全能者たる神を信じ抜くこと。それによって初めて、神の道へ自分なりの確信をもって近づくことが可能になるように思う。私は全能の神を信じる。

「見よ、私はあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた」

 この聖句をどう受けとめるのか。

 私には弁解の余地はない、ということを考えねばならぬ。

“次兄”岡本武から受けた影響

 1970年1月、中村アパートに居を構える。ここが、日本を離れるまでずっと、私のネグラになった(註=岡本は鹿児島大農学部林学科の学生だった)。部屋は二階の北東のすみにあったために、桜島を見晴らし、また朝はオテントサマにたたき起された。そのころの私は授業をサボるのが普通で、朝メシ抜き、経済的節約をかねた昼寝ゴロだったが、やがて植物生理の研究室にマジメに通うようになったのは、こんな自然の条件も作用しているように思える。

 2月の終りに、次兄(註=日航機『よど』号ハイジャック事件犯人・岡本武)から電話の呼出しを受けた。「博多にすぐ出て来い」という。金をかき集め、汽車に飛び乗る感じで直行する。

 博多では“赤軍派中央軍”主催の集会が行われたのだが、のぞき見る感じで参加してみたけれど、お粗末だったことは否定できない。名前のわりに中身のない集会で、こうしたものが積み重なると、「名が知られているわりに実力のないヤツ」がはびこってくることになる。

 集会後、次兄に「ええヤツや」とひとりの男を紹介された。ずっとあとになって、彼が坂東国男だったことを知った。

 この日は、深夜喫茶で次兄と翌朝まで話しこんだ。次兄の話が私に与えた影響は大きかったことを記憶している。カンタンにまとめれば、「左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること。世界赤軍が一国内革命運動に果す役割は“前段階武装蜂起”であり、“前蜂”は玉砕戦である。二・二六(事件)をイメージすれば十分だ」ということだった。

 当時の私は「軍」という聞きなれぬ言葉にビックリし、「戦争」といわれてもハッキリしたイメージは出て来なかった。が、兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実である。もうひとついえば、次兄の話は観念的「革命論」を否定し、「実力あるもの」「中身のあるもの」を追求するための起爆剤として作用した。

 それにしても金がなかった。徳之島で土木の仕事があったので出かけて行ったのは、そのころである。

 仕事は苦しかったが、それは振り返ってみれば楽しい思い出として残る。だが今でもシャクにさわるのは、使用者の連中が公然と「手抜き」をやっていたことである。根本的、基本的なものが抜き取られ、目に見えぬ形式で社会的悪徳がはびこり始めた時、その国は破滅の道を歩み始める、と考えた。その意味でも、「革命戦争」を主張するものは、こうした悪徳に対して、また自分の内部のそういうものに、無感覚であってはならないとも思った。

 一カ月ほど徳之島にいた間に、本格的に焼酎を飲むようになった。夜勤の時には、昼、飯場の前の道を通るバスガイドの女の子にアイサツすることが習慣化したのは、こちらが野郎ばかりとあっては必然的だったようである。

 ハイジャック(註=『よど』号事件)が起きたのは、徳之島にいる間のことである。乗客名の中に、オヤジの名があったと記憶している。たぶん、全員(注=ハイジャッカーの)が自分のオヤジの名を使用したのではないかと思っている。この辺の心理は変なものだ。

 が、私は南海の孤島で仕事をしていたわけで、ハイジャックがそんなに現実性をもって感じられたのではなく、相変らず仕事に精を出すだけだった。

 4月、鹿児島に帰ってみると、大学は機動隊導入を実行したようだった(註=学園紛争)けれども、大した変化があるわけでもなし、中村アパートへ直行する。

 振り返って、残念に思うことがひとつある。薩摩武士的風格を持った当時の(鹿児島大)学長を、革マル派のヤツらが調子に乗って完璧なまでにブチのめしてしまったことである。こういった犠牲者は日本全国に相当いる様子。学園紛争の持つ限界を感じることのできない連中が左翼を名乗っていると思えば、やはりシャクにさわった。

 私は京都から東京へ出かけたが、東京で“接触”した部分の質の悪さには少々ウンザリさせられた。長兄(註=佐藤訪米阻止闘争で検挙されていた岡本靖一)に面会にムショに行き、帰路、次兄の荷物整理のため京都に立ち寄った。その時の京都での楽しい思い出をひとつ。嵐山で湯豆腐を食ったこと。高校三年の春休み、次兄に連れられて初めて嵐山に来た時は二日酔いの状態だったことを思って、ニヤリとしたものだ。

 二週間ほどの感傷旅行を終え、熊本に舞い戻る。オヤジも無事定年退職した。が、教師の息子たること(註=岡本の父親は「マジメな先生」と定評のある小学校校長だった)が少々シンドイのは事実である。家族問題の解決は、人情的側面が強いだけに骨が折れる。論理化できるわけでもなし、「そっとしておくこと」なのだが、父親のカンが鋭いのにはビックリさせられる。とぼける以外に方法がなく、時として口論してしまうことになる。スマヌと思いつつも、なんとなくやりきれぬ思いにさせられたことは何度もある。

 少し横道にそれるが、私は肩が張ったと思う時、面白かったことを思い出して、一人ニヤッと笑うことにしている。そのひとつ――。

 私のオヤジは機嫌の良い時や手土産を持って帰宅するような日には、よく「馬のツノ」を持って帰ってやると約束していた。小学生時代には、「馬のツノ」があるかどうかで、ときどき同級生とケンカしたものである。三番目の姉は高校時代まで、「馬のツノ」の存在をひとり確信していたようだ……。

 面白いといえば、ガキ共(註=大学の学友)とはずいぶんいろいろなものを食った。いちばんひどかったのは、片栗粉に塩をほうり込んで食ったことだろう。バルベック(註=後に岡本らがゲリラの訓練を受けた場所)でのエサに耐えられたのも、こうした予備訓練が役立ったというところだろうか。

(註=9月から岡本は大学の「植物生理研究室」に入り、教官に親しみを感じたらしく、本人の語るにはマジメに研究室に通った。が、それも「やがて来る赤軍派の“前段階武装蜂起”に兵士として参加する時までのこと」と思っていたフシもある)

ベイルートからきた秘密指令

 11月25日、三島由紀夫の事件が起きた。彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人たちに対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか。

 年が明けた2月、電話連絡を受けて東京に出た。連絡では「質の良い集会」だったはずなのに、質の悪い連合赤軍の結成集会だったのには、いま思うと因縁めいたものを感じる。以後、中央部分はよほどのことがない限り信用しないことに決めた。「軍」と称する部分がダイナマイトに関する知識のイロハもないのには、こっちのカンが狂わされてしまう。そしてまた、鹿児島にいる時は「年寄り組」(註=岡本は京大を受験して浪人したため仲間より年かさで、また京都の予備校時代に、過激派作法もカジっていた)に属しながら、東京へ来ると、なんの風の吹きまわしか、とたんにガキに転落させられるのには閉口した。

 この集会からしばらくして、奥平同志と奥平夫人(註=重信房子)がベイルートへ出かけて行くことになった。

 私のほうは、5月末日、桜島から対岸の海水浴場まで約四キロを泳ぎ渡る。仲間四名で、潮流に五百メートルほど流されただけで、なんとか渡ることができた。所要時間二時間ほど、と記憶している。泳ぎ渡ったという満足感だけはいつまでも残る。後で考えてみれば、伴船なしで、途中でヘタバればあの世行きなのだから、ムチャな行動だったともいえよう。私は誘われてなんとなく参加したのである。しかし、最初は伴船もちゃんと予約してあり、それがなぜか来なかったのだが決行したのだというイキサツは、付け加えておくほうが良いだろう。

 夏休みの終りごろ、ベイルートからの手紙を持った使者が来た。私はしばらく考えたあと、「行く」ことに決めた。あまりアッサリ決めたので、使者のほうが驚いた様子だった。

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