<span>「なぜすぐにその映画を観ないのか」—— AIに人生を「要約」される時代、自分の「好き」を要約して失われるもの</span>
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博覧強記で知られる片山杜秀さんは少年時代から「こだわり」が強く、興味を持ったことは何でも大学ノートにまとめ、手書きでデータベース化していたという。AIが発達する現在では、卒論の参考文献もAIに要約させてしまう“タイパ重視”の学生も珍しくないが、人間が自分の頭で覚えたり考えたりすることは時間の無駄なのだろうか。片山さんは、AIの要約に頼ることで失われる大切なものがあるのではないかと語る。

大学ノートに手書きで――「セルフ詰め込み教育」の幸せ

 振り返ると、子供の頃の私は自分自身に一種の「詰め込み教育」をしていました。たとえば司馬遼太郎の『城塞』とか『関ヶ原』とかを読みながら、登場人物を全員、大学ノートに書き出していたのです。最終的にそれを時代別とか国別に分けて整理するのが好きで、その結果、戦国武将や軍人の名前をやたらと覚えてしまいました。

 同じことをドラマでもやっていました。小学校6年生の時に家庭用ホームビデオが発売されましてね。まずソニーのベータマックスが出て、それから1年遅れてVHSが出ます。うちの親は新しがり屋だったので、知り合いの電気屋さんに予約注文して発売日に届けてもらったりしていました。それで私も大河ドラマからクイズ番組まで好きな番組を片っ端から録画するのですが、当時はビデオテープも高価で1本3000円くらいしたので、上書きしないとすぐにテープが足りなくなる。そこで前の録画を消す前に、各回の登場人物や配役、果てはスタッフの名前まで全部ノートに書き出していました。

 好きな映画の詳しいキャスティングやスタッフの名前が知りたくて、「キネマ旬報」の古いバックナンバーを神保町まで買いに行く。でも、実はやっぱり映画のクレジットの方が情報は正しいし、情報量も多いものなのです。結局、自分で全部見て、調べて、整理しないとダメだと。自分で書いて記録していくしかない。それが当たり前の世代でした。

 今だとネットで検索すれば色んなデータベースが出てくるし、さらにAIが探して答えてくれる。私がやっていたようなことに労力を使う必要は全くないわけです。ただ、そこでやっぱり別の問題が起きてきているのではないか、と思うのですね。

「いつでも観られるから」と映画を観ない学生

 たとえば最近の学生さんで映画好きな人がいて「岡本喜八監督が好きです」と言うので、「もう○○は観た?」と作品名を挙げて聞くと、代表作はともかく、マイナーな作品は観ていなかったりする。しかも、その後も何回聞いても「まだ観ていない」という答えが返ってくる。せっかく好きな映画監督がいて、将来それを自分の研究や趣味のコアにしたいと思うのであれば、早くちゃんと観た方がいい。私がそう勧めると、その学生さんは最終的にこう答えたのです。「でも、慌てて観ようと思わなくても、いつでも観られますから」。

 確かに今は、AmazonでもNetflixでも、ちょっとお金を払えばネットでたくさん観られます。ものによってはYouTubeに無料で上がっていたりもする。私が若い頃は、観たい映画の上映館を一生懸命に探していました。マイナーすぎて特殊な上映会に行かないと観られないとか、何年経っても一回も観る機会がない作品がたくさんありました。運よくテレビで放送されたと思ったら放送時間の関係でカットされまくりで、確認したかった脇役の場面がなくなっていたとか、そういう悔しい思いをしながら「いつかちゃんとオリジナル版を観なくては」と思っていた。「今を逃せば二度と観られないかもしれない」という感覚は、「いつでも観られるから後回しで大丈夫」というのとはだいぶ違いますよね。

 でも今の学生さんだって、在学中だからこそ時間があるけど、働き出したら「いつでも観られる」なんて言っていられなくなる。特に映画なんて若い時に観ておくことが重要で、それが好きだと思った時の感受性がまだ残っているうちに、得たものを人生で活用する時期が長く残っているうちに観ておかないとダメだよと、偉そうなことを学生さんには言うのですけど。

知識は増えず、「わかった気になる」ことが増える

 本当に好きになるということは、こだわって、思い入れを持って細かいところまで見て、自分の中で消化することだと思います。だけど今は映画もドラマも早送りで観られますし、ネットで簡単なあらすじだけ読んで観た気になる人もいる。もちろん良い面と悪い面はあるだろうけど、やっぱり違うな、と私は思いますね。

 今の学生さんは、卒論の参考文献も最初から最後まで自分で読まない人がいます。「AIを使って要約して勉強します。要約で足りないと思った時にそこだけ探して読みます」と堂々と言うわけです。確かにそうすると時間も効率的に使える。最近ではその要約すら読むのが面倒くさいからと、AIで音声にしたり動画にしたりするケースもあるみたいです。

 こういう状況で何が起きているかというと、ちゃんと消化しないで「わかった気になって実はわかっていない」ということが、あらゆるところで増えているのではないかと。触れる情報の総量が増えている分、ひとつのことに熱中して細かくこだわる時間が失われているような気がします。

どれほどAIが発達しても、人間が自分の頭で考えることの重要性はなくならないと片山さんは語る

覚える必要がなくなれば「こだわり」も薄れる

 大人になってから興味を持って覚えた知識って、固有名詞とか意外とすぐ忘れてしまったりしますよね。逆に若いうちに覚えたことはなかなか忘れないものです。私の場合は小中学生ぐらいのうちに、昭和の内閣の閣僚名簿とか、陸海軍の軍人や戦国大名、思想家の名前、クラシック音楽の作品番号とか、たくさん暗記していた。自分の興味のある分野について書かれた本は、もちろん全部は読めないにしても、少なくともどんな本が出ているかはよく把握していました。

 なぜそんなことをしていたかというと、やっぱり「好きだから覚えておかないと」というこだわりがあったからです。今は、こだわらなくても簡単に情報を残せる。いちいち固有名詞を覚えなくても、検索したらすぐに出てくる。一生懸命自分で書いて覚える必要なんかないわけです。でもその分だけ、記憶として定着しないし、こだわりが薄くなる。何に対してもこだわりが薄い、思い入れがない人が増えていくのかな、という気はしています。

 自分が好きになったものを、限られたチャンスにちゃんと見ておこう、あるいは読もう、聴こうという姿勢が失われてしまう。「いつでも観られる」「後で要約だけ読めばいい」と片付ける機会が増えるのは本当に良いことなのか、少し心配になります。

AIに「片山杜秀」を要約させてみると……

 先日、学生に「AIで私のことを調べて15分間の動画にまとめてみて」と言ったら、20分くらいでできてしまいました。

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