資金の仲介で力を発揮した15世紀以降のイタリアの金融業者
アメリカ大陸から大量の銀を受け取ったのは、スペインだった。遠隔地の支払いを帳簿と為替手形で結ぶ技術は、イタリアの商人たちが既に育てていた。それにもかかわらず、17世紀、国境を越える商業と金融の中心として台頭したのは、アムステルダムだった。
なぜ、アムステルダムだったのか。スペインへの銀の流入が本格化したのは、16世紀半ばからである。現在のボリビアにあるポトシでは、1545年に銀山の開発が始まった。同じくスペインの植民地だったメキシコでも銀の生産が拡大し、アメリカ大陸から大西洋を渡る銀が増えていった。
アメリカ大陸の造幣所などで鋳造されたスペインの8レアル銀貨は、16世紀後半から17世紀にかけて、国際交易で広く使われるようになる。1571年にスペインのアジア拠点となったマニラは、メキシコとアジアを結ぶ交易の中継地となり、銀は太平洋を越えて、アジアにも運ばれていた。
だが、銀貨がスペインに届けられた後も、ビジネスは続く。スペインが外国から商品を購入すれば、その代金は外国の商人に渡る。外国船を使えば、船主に運賃を支払う。資金を借りれば、金融業者に利息を支払う。銀貨の一部は、こうした支払いを通じてスペイン国外に流れ、受け取った人々は次の仕入れや投資に回した。
銀を産出する植民地を持たなくても、商品を売り、荷物を運び、支払いを仲介することによって、収入を得られる。商品の売買から輸送、決済までを担うのもまた富の源泉だった。こうしたビジネスのうち、資金の仲介で力をまず発揮したのが、イタリアの金融業者である。15世紀のフィレンツェのメディチ家をはじめ、イタリアの商人銀行は、帳簿や為替手形を使い、現金をその都度運ぶことなく、遠隔地への支払いを仲介していた。
スペイン帝国の資金繰りを支えたのも、ジェノバなどの金融業者だった。いずれ銀が中南米の植民地から到着すると分かっていても、軍隊への支払いをそれまで待たせることはできない。収入と支出の間で生じる時間や場所のずれを、商人金融が埋めていたのである。