生きるというのは、メンドークサいことが次から次へと襲ってきて、もつれた糸の端(はし)がどこにあるのかわからなくなる状態のことではないでしょうか。僕の生涯はずーっとこのメンドークサさに巻き込まれているような気がしますが、皆さまは如何でしょうか?
あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけないというようなことばかりです。まあ一口にいうと忙(せわ)しいということですが、この忙がしくしているのは単に自分の性格のせいじゃないかと思うのです。
僕の場合は特に自分から何かをするというよりも、向こうからやってくる事柄を受け入れてしまうということです。つまりやってくる運命に従うということです。自分から能動的に行動を起こすとメンドークサいじゃないですか。今は向こうからやってくるものにどういうわけか対応しているのです。でも、自分に向いていないもの、自分にはできないものは当然断わります。
若い頃と違って今は体力が落ちているので、やってくるものはムカシに比べればそれでもうんと少い方です。でも、何んとなく魅力的なものが多いので、つい引き受けてしまうのかも知れません。こうして受け入れた事柄が次々と重ってしまって、メンドークサくなっているのです。
やってくるものは必ずしも仕事ばかりではありません。例えば体調が悪いために病院に行くこともそうです。これもメンドークサいことですが、やっぱり身体のメンテナンスだけはしっかりやって常に健康でいたいと思います。といっても若い頃に比べると、うんと体力が落ちています。自分の体力だけではなく春先に死んでしまった飼い猫の体力も生前はかなり落ちていたために、入退院を繰り返したり、点滴に通ったり、これもやっぱりメンドークサいことのひとつでした。猫だけでなく、妻の健康も気づかいます。結構他にも気づかうことが沢山あります。
そんなわずらわしさをやりくりするうちに、老齢なので、中々思い通りに身体が動かないこともあり、自分の周辺のことが全てメンドークサくなってしまうのです。さて、昼食はどうするか、スタッフに何かテークアウトしてもらう食物を考えなくてはなりません。この考えることもまたメンドークサいのです。
といって毎日をあわただしく生きているわけでもありません。目下進行中の本や画集のことを考えるだけでメンドークサい。他にも外国から展覧会のカタログなどがドサッと大量に送られてきたり、海外の展覧会に出品する作品の選択など、自分でやるわけでもないのに、こういう仕事があるというだけで心理的にメンドークサいのです。
イヤな仕事は何ひとつ引き受けていないにもかかわらず、そのことを考えたり、思ったりすることがやたらめったらメンドークサい。このメンドークサい環境から逃がれるために、頼まれもしない絵を描いたりして、描くということの忙がしさにまた振り廻されるのです。
もう、メンドークサい病ですかね。何もしないでアトリエのソファーにごろんと横になってボンヤリ天井を眺めている時、こんなことをしていていいのだろうか、と考えるその気持さえもメンドークサいのです。
つまり生きていること自体がもしかしたらメンドークサいのかも知れません。こういう性格の僕は死んでもきっと、生きている時と同様、メンドークサいと思うのかも知れません。大相撲を観ていても、野球を観ていても、自分が相撲を取るわけでもないのに、なんだか土俵に上っているみたいだったり、バッターボックスに立っているみたいに感じて、メンドークサいなあと思っているようです。
こういう心境の時はどうしたらいいんでしょう。旅に出て温泉にでも入るとか、今の現実から逃避するしかないと思うのですが、この逃避すること自体メンドークサい。旅に出るなんて最高にメンドークサいことです。しょうがないので風呂にでも入ってみるのですが、先ず身体を洗うこともメンドークサく、湯舟につかっているのもなんだか馬鹿みたいで、湯舟から出て、衣類を着るのも、メンドークサい。以前など寒い時は下着を着たまま湯舟に浸って、湯舟の中で脱いだりしていました。
そしてベッドの中に入るためにパジャマに着がえる、これもメンドークサい。すぐ眠るのもメンドークサいのでベッドの中から足元の大きいテレビを見ます。テレビを見ても難聴なので音声が聴こえません。チャンネルを次々変えながら全テレビ局の番組を編集するように立て続けに見ます。ひとつの番組に集中するということができないのです。他局ではもっと面白いことをやっているのではと、全く気持が落ちつかないのです。
まあ、こんなことをやっている間に疲れて電気をつけたまま眠ってしまうようです。僕は一体一日中、何をしているのでしょうか。