<span>「私たちは偶然がやってくるための準備をしている」――濱口竜介監督が語るカメラと被写体の関係性</span>

ドキュメンタリー|カルチャー

「私たちは偶然がやってくるための準備をしている」――濱口竜介監督が語るカメラと被写体の関係性

2026年6月21日

第79回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に正式出品され、見事最優秀女優賞(ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒)を受賞した『急に具合が悪くなる』。いま国内外で最も注目される映画監督の一人、濱口竜介さんが映画を撮る上で、重視するのが「偶然性」だ。インタビューの後編では黒沢清監督の演出方法を皮切りにカメラと被写体の関係性やそこに訪れる「偶然」について語ってもらった。

黒沢清監督の語る「カメラという機械」が映すもの

濱口監督は、これまでも度々カメラと被写体との関係について語ってきた。カメラが持つ力とはどういうものか、カメラの前に立つ俳優はどういう状態に置かれるのか、『ハッピーアワー』の脚本と演出論を収めた『カメラの前で演じること』という書籍のなかでも、その理論は明確に書かれている。

『急に具合が悪くなる』のなかで、ユマニチュードは、研修を行うことで誰もが習得でき、ケアを必要とするすべての人に使える技術であることが示される。とすれば、濱口流の演出術も、汎用性の高いひとつの技術であると言えるだろうか。
 

画像
© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

「演出というのは、どこかエンジニアリングに近づいていく面があります。そう言ってしまうとあまりに無味乾燥に聞こえるかもしれませんが、構造から考えて技法に落とし込む、というのはそういうことです。カメラと俳優との関係について、考える基盤にあるのは『黒沢清、21世紀の映画を語る』という本のなかの言葉です。あるとき黒沢さんは韓国で行ったQ&Aで映画製作を志す若者から、“俳優に脚本通り台詞を言わせてそれを撮影したところ、どうにも嘘くさくリアルではないように感じてしまった。いったいどうしたら俳優の演技をリアルに見せられるのか?”と質問された。それに対して黒沢さんは、“それは当たり前である、なぜならカメラはそういう機械だからだ”と答えています。つまりカメラとは現実をありのままに記録する機械であり、だから俳優が目の前で脚本通りに覚えた台詞をただしゃべっているだけに見えるのは、「俳優が覚えた台詞をただしゃべっている」のが現実そのものだからだ、というわけです。これを読んだときは、「まさにそうだ」と膝を打ちました。では、演じる被写体がカメラの前に立ち台詞をしゃべっているという状態を、どうすれば観客がこれこそが現実であると“信じる”状態にまで持っていけるのか。

カメラという機械と、その前で演じる被写体という二者が出会い、さらにそれを観客が見る。この“出会い”をどうコーディネートするのかが今の自分の監督としての仕事だと考えています。要するに、固有の歴史を持った生身の肉体を、精密な記録装置であるカメラやマイクの前に立たせてなお、それがキャラクターという本来まったく別の歴史を持った肉体として認識されるところまで、どうやって持っていくか。ここには、ほとんど無理に近い困難があります。ほとんど不可能に近いので、もしかしたら無視したほうが賢いのかもしれないし、実際多くの監督はそう処理しているように見える。ただ、自分にとってはこの困難こそが十分に興味深いものでもあるし、今はまだ体力もあるので、正面から取り組んでみたい。そうなると、そのための準備をする、ということになる。『ハッピーアワー』以来行っている『本読み』がよく取り沙汰されますが、これはあくまでカメラと被写体との間に生じる問題をどう解決するうえで、プロセスの一つです。

実際のところは、「本読み」は、普段の自分が言わないような言葉を、反射に近いかたちで口から出てくる状態にする、という演技の最低条件を整えるだけのものです。キャラクターとしても妥当な感情表現が生まれるためには、キャラクターごとにサブテキストを渡すことや、ときにはそれをリハーサルすることが必要になります。何より、演出家の俳優に対する態度、俳優の共演者に対する態度などが演技空間の基盤になければならない。そもそものキャスティングから、脚本の構成まで、この困難を解決するための配慮が不可欠です。エンジニアリングと言ったのは、そういったアプローチの総体のことです。

ただ、究極的には演出は、エンジニアリングではない。少なくとも、それだけではない。目指しているのは結局のところ、“得も言われぬもの”が被写体から溢れ出てくる瞬間をカメラによって克明に記録することです。これが起きると結局「何でこんなことが起きたかわからない」と感じる。この、現場で起きるどこかマジカルなものと、技術としてのエンジニアリングをどちらも否定しないこと。“演出”という仕事は、その中間にあるものと感じます」

濱口監督の話を聞いていると、カメラと被写体=俳優との関係をめぐっては、黒沢清監督と根本的に同じ認識のもとに立っているのがよくわかる。興味深いのは、二人の演出の仕方が、特に俳優への対し方においてまったく別のスタイルを持つことだ。インタビュー等でしばしば語るように、黒沢監督は俳優に対して、いわゆる「演技指導」のようなものはほとんど行わない。脚本に書かれたことがすべてであり、演じる役がどのような来歴を持つ人物なのか、その行動を取る理由とは何か、といった説明を行うこともない。一方で、現場では俳優に対する動きは丁寧につけていくとも聞く。この違いは、それぞれの作家性ということなのか。

おすすめの記事

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

おすすめの動画

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

ニュースレターを購読する

新潮QUEは、「問う力」を養っていくためのサブスクリプションサービスです。

無料登録する