黒沢清監督の語る「カメラという機械」が映すもの
濱口監督は、これまでも度々カメラと被写体との関係について語ってきた。カメラが持つ力とはどういうものか、カメラの前に立つ俳優はどういう状態に置かれるのか、『ハッピーアワー』の脚本と演出論を収めた『カメラの前で演じること』という書籍のなかでも、その理論は明確に書かれている。
『急に具合が悪くなる』のなかで、ユマニチュードは、研修を行うことで誰もが習得でき、ケアを必要とするすべての人に使える技術であることが示される。とすれば、濱口流の演出術も、汎用性の高いひとつの技術であると言えるだろうか。
「演出というのは、どこかエンジニアリングに近づいていく面があります。そう言ってしまうとあまりに無味乾燥に聞こえるかもしれませんが、構造から考えて技法に落とし込む、というのはそういうことです。カメラと俳優との関係について、考える基盤にあるのは『黒沢清、21世紀の映画を語る』という本のなかの言葉です。あるとき黒沢さんは韓国で行ったQ&Aで映画製作を志す若者から、“俳優に脚本通り台詞を言わせてそれを撮影したところ、どうにも嘘くさくリアルではないように感じてしまった。いったいどうしたら俳優の演技をリアルに見せられるのか?”と質問された。それに対して黒沢さんは、“それは当たり前である、なぜならカメラはそういう機械だからだ”と答えています。つまりカメラとは現実をありのままに記録する機械であり、だから俳優が目の前で脚本通りに覚えた台詞をただしゃべっているだけに見えるのは、「俳優が覚えた台詞をただしゃべっている」のが現実そのものだからだ、というわけです。これを読んだときは、「まさにそうだ」と膝を打ちました。では、演じる被写体がカメラの前に立ち台詞をしゃべっているという状態を、どうすれば観客がこれこそが現実であると“信じる”状態にまで持っていけるのか。
カメラという機械と、その前で演じる被写体という二者が出会い、さらにそれを観客が見る。この“出会い”をどうコーディネートするのかが今の自分の監督としての仕事だと考えています。要するに、固有の歴史を持った生身の肉体を、精密な記録装置であるカメラやマイクの前に立たせてなお、それがキャラクターという本来まったく別の歴史を持った肉体として認識されるところまで、どうやって持っていくか。ここには、ほとんど無理に近い困難があります。ほとんど不可能に近いので、もしかしたら無視したほうが賢いのかもしれないし、実際多くの監督はそう処理しているように見える。ただ、自分にとってはこの困難こそが十分に興味深いものでもあるし、今はまだ体力もあるので、正面から取り組んでみたい。そうなると、そのための準備をする、ということになる。『ハッピーアワー』以来行っている『本読み』がよく取り沙汰されますが、これはあくまでカメラと被写体との間に生じる問題をどう解決するうえで、プロセスの一つです。
実際のところは、「本読み」は、普段の自分が言わないような言葉を、反射に近いかたちで口から出てくる状態にする、という演技の最低条件を整えるだけのものです。キャラクターとしても妥当な感情表現が生まれるためには、キャラクターごとにサブテキストを渡すことや、ときにはそれをリハーサルすることが必要になります。何より、演出家の俳優に対する態度、俳優の共演者に対する態度などが演技空間の基盤になければならない。そもそものキャスティングから、脚本の構成まで、この困難を解決するための配慮が不可欠です。エンジニアリングと言ったのは、そういったアプローチの総体のことです。
ただ、究極的には演出は、エンジニアリングではない。少なくとも、それだけではない。目指しているのは結局のところ、“得も言われぬもの”が被写体から溢れ出てくる瞬間をカメラによって克明に記録することです。これが起きると結局「何でこんなことが起きたかわからない」と感じる。この、現場で起きるどこかマジカルなものと、技術としてのエンジニアリングをどちらも否定しないこと。“演出”という仕事は、その中間にあるものと感じます」
濱口監督の話を聞いていると、カメラと被写体=俳優との関係をめぐっては、黒沢清監督と根本的に同じ認識のもとに立っているのがよくわかる。興味深いのは、二人の演出の仕方が、特に俳優への対し方においてまったく別のスタイルを持つことだ。インタビュー等でしばしば語るように、黒沢監督は俳優に対して、いわゆる「演技指導」のようなものはほとんど行わない。脚本に書かれたことがすべてであり、演じる役がどのような来歴を持つ人物なのか、その行動を取る理由とは何か、といった説明を行うこともない。一方で、現場では俳優に対する動きは丁寧につけていくとも聞く。この違いは、それぞれの作家性ということなのか。
「一言で言えばそういうことなんでしょうけど、私からひとつ言えるのは、黒沢さんの方法は、黒沢さんが重ねてきた歴史によって可能になっているということです。黒沢さんは、ある時代の雰囲気のなかで、必ずしも主流でないようなしかたで、自身の違和感を捨てずに映画をつくってきた。結果的に、そのことがまた観客も育ててきた。自分が同じことをやれないというのが大前提ですが、仮に真似たとして、観客の信頼を得ることはないでしょう。
自分が真似られることがあるとすれば、今の時代のなかで、自分の違和感に率直に映画をつくるということです。今はテレビに限らず、映画以外の映像が山のように溢れているし、自分の体感として、黒沢さんが映画を撮り始めた頃、そして今の私と同じ40代の頃に撮っていた頃に比べ、現在の観客の方が明らかに集中力が低くなっている。結果として、映画を信じる力はより弱まっているとも感じます。それは一映画ファンとして、何より自分の身に起きていることです。なので、自分は自分自身がフィクションと理解していながら、なお信じてしまうような映画を求めて、つくっているんだと思います。
もう一つ言えるのは、違和感を捨てないのは大事だけれど、それは変化しない、ということではないということです。黒沢さんの最新作『黒牢城』を拝見して、メチャクチャ面白かったです。近年やられてきたことのすべてがここで結実しているようにも見えました。まだその要因が何とは言えませんが、まったく新たな黒沢清作品と感じます。俳優への演出の仕方も明らかに、以前と変わってきたように感じました。黒沢さんもまた、時代の空気を吸いながら変化をし続けている。自分も70歳に至っても、変化をし続けていられるだろうかと自問しますし、そのためには自分の方法にこもってしまうのではなくて、今ここから変わっていきたいと思っています」
「偶然性」を取り入れるとはどういうことか
もうひとつ、『急に具合が悪くなる』を語るうえで欠かせないテーマのひとつが「偶然性」だ。原作が偶然の出会いから生まれた関係に基づいた往復書簡であったように、映画でもまた、偶然に出会ったマリー=ルーと真理という二人の女性が、いくつもの偶然の符合を共有していく様が描かれる。
そして、劇中で真理が演出する舞台はまさに偶然性を取り入れた画期的なものだ。重度の自閉スペクトラム症を抱える智樹は、彼の祖父・吾朗(長塚京三)の一人芝居の最中、客席から声を発したり、舞台の上へと登ってきたり、毎回思いがけない行動をとる。吾朗と真理は、そうした智樹の予想できない行動を、その都度演劇の中に組み込み、ひとつの作品としてつくりあげていく。
その場で偶然に起こる突発的な出来事=ハプニングを受け入れ、作品の中に取り込んでいく。こうした真理の演出方法は、脚本を何度も俳優に読ませ、その繰り返しの先に現れる俳優たちの反応をカメラで記録する濱口監督の演出方法とは一見対極的にも思える。映画と演劇との違いもあるだろうが、濱口監督自身は、真理のような「偶然性」を積極的に活用した演出をやってみようと考えたことはないのだろうか。そう問いかけると、意外な答えが返ってきた。