<span>「凶暴な熊」と「臆病な熊」の議論はなぜかみ合わないのか――人間と動物の境界線を探る【中編】</span>
知床のヒグマ 写真:Frank Fichtmueller/shutterstock.com

カルチャー

「凶暴な熊」と「臆病な熊」の議論はなぜかみ合わないのか――人間と動物の境界線を探る【中編】

2026年8月12日

サバイバル登山家の服部文祥さん、極地探検家の角幡唯介さん、写真家の石川直樹さん。旧知の3人が、2025年12月に秋田市で行われたトークイベントに招かれた。テーマは「クマと人の共生を学ぶ」。多くの被害者、犠牲者を出している今、「熊との共生」論はかなり分が悪い。現場を知らない夢想に過ぎないではないか、と。しかし実際に熊が出没する山に数多く足を踏み入れ、彼らを撃ち、肉を食べる、といった経験を持つ服部さんと角幡さんは、熊対策の重要性は理解しつつも、最近の熊についての言説には違和感を覚えるという。異論反論覚悟のうえ、極限を知る男たちによる大胆かつ忌憚のない座談会をお届けする。中編では人間と動物の定義に思索を巡らせながら、熊騒動から資本主義の問題にまで話が発展していく。

「安心安全便利快適」の先にある分断

服部 角幡君が新刊の『43歳頂点論』に書いていた、なんだっけ「安全安心快適」ってやつ。

角幡 「安心安全便利快適」ですか。(社会学者の)宮台真司さんの言葉ですね。

服部 その安心安全便利快適を求めて、俺たちは人間社会を作ってきて、今やその社会の内側でだけで人間が生きていけると思えるほどまでになっている。都市部に住んでいる人たちにとっては、食べ物はすべてスーパーマーケットにあって、水はどこか知らないところから地中の水道管を流れてきて、燃料も地中の管をガスが通ってきて、もう人間社会の中ですべてが完結している。本当は全部外から運び込んで買っているわけだけど、その意識はない。その延長線上に、ハエが1匹部屋に入ってきても大騒ぎするような人もいる。

 本来の自然生態系とは違う人間社会という別の「系」で、人間は生きていけることになっている。かつては里山などの自分たちの生活圏で作物を作ったり、山に住む熊を撃ったりして生活していたのが、里山を開墾せずに、食料も燃料もすべてよそから運んで買うことができる生活が、地方でもできるようになった。その延長で、山が不作の年には、熊が荒れ果てた里山を伝って、住宅街に出てくるようになった。

 なんでこうなったのか、根本的なところを突き詰めていくと、いろいろな要素があるとは思うけど、やっぱり石油だと思うんだよね。化石燃料を燃やしてそのエネルギーを人間がうまく抽出することができるようになった。その結果、人間だけが豊かな社会を作って、食料も燃料も水も、すべてよそから運ぶことで生活が成り立つようになってしまった。かつては一致していた自分の生活圏と日々の生活が、いまは分断されてしまった。

 たまたま地球に埋まっていた石油というエネルギー貯金を、人間が浪費して人間社会は運営されている。俺はそんな人間のひとりであることが、恥ずかしいというか、醜いっていうか、格好悪いなと思って、自分はできるだけ石油に頼らずに生きてみたいという思いから登山をしているんじゃないかな、ということに今回、改めて気がついた。

石川 そこですか(笑)。

服部 そう、そこ(笑)。もちろん、俺自身だってそういう人間の1人だから人のことは言えないんだけど、1年の半分くらい山間の廃村の小屋で自給自足に近い暮らしをしているのは、できるだけ石油を使いたくないから、という理由もある。

「熊は難民」という視点

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