戦前から受け継がれる「実力主義」の社風
三菱商事と三井物産の社風の違いについて、「組織の三菱」「人の三井」と評されることは前回ご紹介した通りである。サッカーにたとえ、三菱商事が組織プレーを行う欧州タイプ、三井物産はスーパープレーヤーが個人技で他を圧倒する南米タイプ、と言われることもある。
「少し前の商社業界では『タテの三菱商事、ヨコの三井物産』と言われていました」
そう語るのは住友商事OBで『商社のしくみとビジネスがこれ1冊でしっかりわかる教科書』(技術評論社)の著者、治良(はるなが)博史氏だ。
「タテ型組織とは、経営者の意向が上意下達で末端まで伝わるトップダウン型組織。ヨコ型組織とは、階層のないフラットな体制を取り、各営業部に大きな責任が与えられているのが特徴です。現場の裁量が大きくなる分、社員の挑戦を許すような組織風土にもつながります」
「ヨコの三井物産」を象徴するのが、同社で採用されていた「部店独算制」と呼ばれる制度である。
「各地域の支店が本社の営業部とは独立して採算をとりなさい、という制度です。そこでは支店長が予算・決算責任から投融資判断、人事まで責任を負うことになります。支店や支社においては、本社の意向をうかがう中央の人材よりもその地域の事情をよく知るベテランの場所長などに利益責任を負わせた方が合理的です。現場の場所長の意向に従うことで、情報共有や意思決定も迅速になります」(同)
その起源は戦前まで遡る。
「1876年に誕生した三井物産は井上馨が設立した『先収会社(せんしゅうがいしゃ)』を引き継ぐ形で生まれたとはいえ、ほとんどゼロからの出発だったと言われています。実質的な創業社長・益田孝が、自らの知謀で日本を代表する大企業に成長させたのです」
と、経営史学者の菊地浩之氏は言う。
「創業当初から三井物産の得意技は、ゼロからイチを生み出す商売でした。それには何より個人の商才が必須になります。だからこそ、三井物産はセンスのある人材を見出して大きな権限を持たせ、成功したら莫大な報酬を与えるという人材起用法をとりました。逆に、失敗したらその社員を更迭・左遷するという、極端な実力主義だったとも言われています」
そのおかげか、戦前の三井物産は大成功を収めることになった。
「特に綿花を輸入して綿糸を輸出する事業を立ち上げ、1890年代には三井物産の輸出入額は日本の総貿易額の2割を占めるに至りました」(同)
先に触れた部店独算制は、こうした戦前からの伝統を受け継いだものと言える。
ただし、
「部店独算制は2004年3月に廃止され、長い歴史に幕を下ろしました。ヨコ型組織だと指揮命令系統が曖昧になりやすく、責任の所在もわかりにくいというデメリットがある。ヨコ型の良さを残しつつも、指揮命令系統がはっきりしたタテ型の効率性を取り入れようとしたのでしょう。しかし、戦前からのそういった制度の名残は今の三井物産の風土にもはっきり残っていると思います」(先の治良氏)
初年度18億円の売り上げを記録した「観覧車プロジェクト」
三井物産元社員で『ふしぎな総合商社』(講談社+α文庫)の著者、小林敬幸氏は同社の組織風土を象徴するようなプロジェクトを主導したことがある。
「1999年にお台場で営業を開始した『パレットタウン大観覧車』は22年8月に営業終了となって現在は撤去されていますが、23年にわたってお台場を象徴するスポットであり続けました。このプロジェクトの立ち上げを主導した際、私は三井物産の情報産業開発部の社員でした」(小林氏)
パレットタウンが建つ予定になっていた土地は東京都が所有しており、半分を三井物産の不動産部門が、もう半分は森ビルが借りていた。東京都にはパレットタウンでボウリング場やゲームセンターなどの娯楽施設を作るという計画があり、
「その事業を入札方式で三井物産と森ビルが競り落としたのです。当初は、三井物産が屋内ゲームパークの運営会社に場所を貸し出して賃料を取る、という不動産ビジネスが想定されていました。でも、私としては、なんかもうちょっと儲かる方法はないかな、と社内で上司と模索していたのです。それで色々なアイデアを考えた結果、思いついたのが観覧車だったのです」(同)
ジェットコースターなどと違い、観覧車は大きいわりに建てる土地の面積はそれほど必要ない。さらに、
「お台場という土地柄、カップルをターゲットにすれば、平日の夜でも仕事終わりの会社員が入り続けるかもしれない。当時、大阪に『天保山大観覧車』という100メートル超えのものが建ったばかりで、それが話題を呼んでいたことも大きかった。私と上司で大阪まで足を運び、おっさん二人ででかい観覧車を見上げながら“よっしゃあ、これやるかあ!”と言ったのを覚えています」(同)
カップルをターゲットにした観覧車、というのは当時としては前例のない事業モデルだった。その上、それが世界最大(当時)の観覧車となればインパクトも大きい。
「“これはおもろいやん”と社内で盛り上がったんです。森ビルさんはおろか、他の遊園地さんにも思いつかない利益の取り方でした。個人が自由な発想で勝手にやっちゃうところは、あの頃の三井物産らしさだったと思います」
と、小林氏は話す。
「観覧車の乗車時間は1周16分とスローでした。上司からは“観覧車は速く回せ。2時間待ちは困る”という意見がありましたが、私は断固拒否。“ゆっくり回すのがいいんです。カップルが二人で乗ってキスできるくらいじゃないと”と撥ね返しました。上司はしかめっ面でしたが、周りの社員は笑っていましたね」
無論、三井物産には観覧車を運営するノウハウはない。そこで、遊園地の観覧車の製造・運営の実績がある会社に話を持ち掛けた。結局、社内の稟議から1年も経たずに大観覧車は完成した。
「いざ始めてみると、これがものすごい儲かったんです。カップルをターゲットにしたのが大当たりでした。遊園地にある観覧車は、客の少ない平日の夜ともなれば回っているだけでほぼ誰も乗らない。でもお台場の場合は、平日夜も仕事帰りのカップルが絶え間なくやってきたのです。“回っている間はずっと儲かり続ける”という仕組みができていたわけです」(同)
収益源は一人900円の客の乗車券代のみ。初年度には200万人以上が押し寄せ、18億円という莫大な売り上げを記録した。
「個人の自由度が高い三井物産の組織風土があったからこそのビジネスでしたが、社内でも“商社がなぜ観覧車?”という声は大きかった。実際、機械製品などの売買仲介をしていた社員からは“観覧車で口銭(仲介手数料)をとってるわけやないんやな?”と聞かれたこともありました」(同)
当時は、ちょうど商社が稼ぐ方法を売買仲介型から事業投資型に変えていった時期にあたる。
「あの時、“観覧車のビジネス、上手いなあ”といち早く認めてくれたのは、LNG(液化天然ガス)の権益に事業投資をしていた社員たちでした。彼らはその時すでに、出資先で何年も資源の採掘と向き合って、長期の目線で収益化を待ち続けていたのです」(同)