80年代に始まり、90年代に開花したミニシアターブーム
日本のミニシアター文化の始まりといえるのは1980年代。映画専門の文化ホールとしては68年に開館した岩波ホールが、すでにアート系の映画を多く紹介していたが、ミニシアターという言葉が使われ出したのは80年代、81年に新宿に開館したシネマスクエアとうきゅう(2014年閉館)を皮切りに、数々の伝説的ミニシアターが誕生してからだ。東京では82年に渋谷の桜丘町にユーロスペース(現在は円山町に移転)が開館、83年にカルチャービル六本木WAVEの地下一階にシネ・ヴィヴァン六本木が開館(99年閉館)。85年にはシネセゾン渋谷(2011年閉館)が、86年にはシネマライズ(2016年閉館)がオープンした。
銀座・日比谷界隈では、87年に銀座テアトル西友(後に銀座テアトルシネマに改称、2013年に閉館)、シャンテ シネ(2009年からTOHOシネマズ シャンテに改称)、シネスイッチ銀座(2026年10月25日をもって閉館予定)と3つの象徴的なミニシアターが誕生し、『ベルリン・天使の詩』(87)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(88)など、時代を象徴するヒット作が生まれた。
80年代がその幕開けの時代だったとすれば、90年代はブームがもっとも花開いた時期だったといえる。なかでも渋谷のミニシアターが果たした役割は大きい。92年には、シネマライズで公開された『ポンヌフの恋人』(91、ユーロスペース配給)が大ヒット、96年に公開された『トレインスポッティング』(96)は社会現象といえるほどの爆発的な人気を博した。シネクイントがオープニング作品として選んだ『バッファロー’66』(98)は、映画という枠を超え、音楽やファッションの分野でも大きなムーヴメントを作り出した。
こうした時代の空気を感じるためにぜひ読んでほしいのは、大森さわこさんの『ミニシアター再訪〈リヴィジテッド〉: 都市と映画の物語 1980-2023』(アルテスパブリッシング)。綿密な取材をもとに、ミニシアター草創期からコロナ禍後までの各地の劇場の変遷を記したこの本を読めば、日本のミニシアターの歴史がよくわかる。
筆者が東京のミニシアター文化に触れ始めたのは2000年代に入ってから。東北の地方都市で生まれた筆者は、2001年の大学進学を機に上京し、東京のミニシアターに足繁く通うようになった。今振り返れば、2000年代半ばからミニシアター文化は徐々に斜陽の時期に入っていったようにも思う。すでにシネ・ヴィヴァンは閉館し、各地にあった有名なミニシアターの多くは少しずつ姿を消し、あっというまに都心にもシネコンが進出し始めた。
それでも、2000年代当時に映画の中心地として見えていたのはやはり渋谷だった。一番映画を観に通ったのはユーロスペース。シネマライズには、観光地を訪ねるようなうきうきした気持ちで話題作やヒット作を観に行き、シネセゾンではレイトショーやオールナイトにも通った。2000年に映画館としてオープンしたばかりのシアター・イメージフォーラムでは、実験的な映画がよくかかっていた。
そんななか、若干の緊張感と共に訪れていたのが、東急百貨店本店隣にあるBunkamuraル・シネマ(以下ル・シネマ)だ。映画館やコンサートホール、美術館が一体になった大型複合文化施設として89年にオープンしたBunkamura。その映画館であるル・シネマでは、初期の大ヒット作『カミーユ・クローデル』(88)や『王妃マルゴ』(94)に代表されるように、どこか文化の香りが漂う外国映画が多く上映されていた。ロビーにはワインを出すバーカウンターのような物販売り場があり、百貨店での買い物やホールでの観劇を日常的に楽しんでいるだろう年上の素敵な女性たちが楽しそうに歓談する姿をよく目にした。
ル・シネマの番組編成をオープン当時から担当してきたのは、プログラミング・プロデューサーの中村由紀子さん。中村さんが以前に受けたインタビュー記事を読むと、開館時にはすでにユーロスペースやシネマライズがそれぞれの個性を確立していたことや、百貨店に併設した映画館という特性を考え、近隣の映画館とはまた別の個性を打ち立てていくことを目指したと語られている。そこで生まれたのが、「大人の女性たちに向けた映画館」というイメージだった。
2011年にアルバイトとして働き始め、翌年に社員となった90年代生まれの浅倉さんは、「90年代の写真を見るとロビー全体が熱気に溢れていて、これがミニシアター文化の熱量だったのかと圧倒されます」と語る。あわせて、自身が入社した2010年代に劇場に来ていた常連客の多くが、開館当初からずっと変わらずに通ってくれていることにも気づかされたという。
「ル・シネマはミドルエイジやシニアのお客さんが多いと昔からよく言われていましたが、劇場側が特別それを意識したというより、劇場と観客が同じように年を重ねていくなかで、自然と互いに成熟していったんだと思います」(浅倉)
2000年代に起きた渋谷の映画環境の地殻変動
先にも書いたように、2000年代から東京の映画館をめぐる地勢図は大きく変わり始めた。
「2003年に渋谷パンテオンが閉館したのを皮切りに、 2010年に渋谷シアターTSUTAYA(跡地は映画美学校)とシネマ・アンジェリカが閉館。2011年2月にはシネセゾン渋谷が、2016年1月にシネマライズが閉館しました。私自身、90年代半ばの学生時代から東京で映画館に通っていたので、やはり渋谷といえば映画の街、というイメージがあり、なかでもその中心地として見えていたシネマライズやシネセゾンの閉館は大きな衝撃ではありました。一方で、ヒューマントラストシネマ渋谷(2004年にアミューズCQNとして開館し、2008年に現在の名称に変更)やユーロスペース、イメージフォーラムなど、渋谷の核をなす場所は変わらずあり続けている。2000年代以降、いろんな映画館が閉館するたびに、“渋谷はもう映画館の街ではない”という趣旨の記事が出るんですが、働いている身からすると、今も渋谷には映画館がたくさんあるけどな、という気持ちではいますね」(野口)
それでも、渋谷の街が変遷するうちル・シネマで上映される作品のラインナップに徐々に変化が見え始める。変化のひとつは、近くにあった劇場が閉館し、これまでより幅広いジャンルの映画が配給会社から持ち込まれるようになったこと。それぞれ独立した組織とはいえ、同じ地域にある映画館同士では、ある程度棲み分けができている。ある一館が閉まることで、同じ街の映画館の特徴にも少しずつ変化が起きていくのは当然だろう。
周囲の状況にあわせて、社内からも変化を望む声が起き始める。2010年代後半から、浅倉さんをはじめとする若い世代の社員らは、これまでのル・シネマのイメージとは少し違う、新世代の監督や先鋭的な作品を取り上げ若い客層を取り込んでいきたい、と声を上げ始めたという。浅倉さんがそう提言したのには、彼自身が、一観客として新たなムーヴメントの予感を感じとっていたからだ。
「2010年代半ばから、日本未公開映画の紹介・上映を企画する団体Gucchi's Free School(グッチーズ・フリースクール)を始め、インディペンデントな形でユニークな上映活動をする人たちが登場し始めた。加えて、この時期のミニシアター界隈では、その先の10年を定義したともいえる映画作家たちの特集や上映が次々に催されていました。たとえば2015年12月から翌年の1月にかけて、イメージフォーラムでは濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(15)の公開と同時にアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の特集上映が開催されていて、どちらも連日ものすごい数の人たちが詰め掛けていました。同じ1月には、東京日仏学院(飯田橋)の『カイエ・デュ・シネマ週間』でシャンタル・アケルマン監督の追悼特集が行われ、こちらも超満員。今、上映の場では何か新しい動きが生まれているんだという熱を、いやでも感じました」(浅倉)
大手の映画会社と組まず、独自の製作方式で作り上げた『ハッピーアワー』の成功はたしかに衝撃的だった。濱口監督のその後の活躍は知ってのとおり。アピチャッポン監督の作品も映画界隈を超えた人気を博した。アケルマン監督の映画はそれまで日本では限られた場所でしか見ることができなかったが、2022年にヒューマントラストシネマ渋谷で、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(75)を中心とした特集上映が開催されると、空前のアケルマンブームが巻き起こった。
「遡ると、2010年代前半にはオーディトリウム渋谷(2011年開館、2014年閉館)という場があり、そこでは空族や濱口監督、三宅唱監督といった日本の若手監督たちの映画をどこよりも早く上映していました。よりインディペンデントに近い形で製作から上映まで行い、それが多くの観客を集めたという状況は、既存の映画館にも強く影響を与えたんじゃないでしょうか。少なくとも僕自身はとても刺激をうけ、自分の働くル・シネマでもこうした新しい世代の作家の映画を上映してみたいと思うようになりました」(浅倉)
濱口竜介監督『偶然と想像』との出会い
実はル・シネマがその長い歴史のなかで初めて上映した日本映画は、濱口竜介監督の『偶然と想像』(21)だった。たしかに、ル・シネマといえば外国映画というイメージは長年共有されてきた。