1720年、ヨーロッパの金融市場は熱狂に包まれていた。
パリでは、スコットランド出身の金融家ジョン・ローが設立した特許会社、通称ミシシッピ会社(インド会社)の株価が急騰。当時フランス領であった北米ルイジアナの開発や貿易、フランス王国の財政再建、銀行券の発行など、これらが一体となった壮大な金融実験が進められていたのである。
長年の戦争による重い国家債務に喘いでいたフランスは、ミシシッピ会社によるルイジアナ開発を梃に、財政金融制度を革新し、積み上がった国家債務を一気に解決しようとしていた。人々は、ミシシッピ川流域で生み出されるであろう将来の莫大な富を夢見て、株式を買い上げた。ミシシッピ会社株の増資の際には、フランス国債を差し出すことで、新株を引き受けることができた。このため、人々はミシシッピ会社株にも、フランス国債にも走った。
同じ頃、ロンドンでは南海会社の株価が暴騰していた。後に「南海泡沫(バブル)事件」と呼ばれる熱狂である。南海会社は、スペイン領アメリカとの貿易特権を掲げていた。ただ、1720年の熱狂の裏側には、やはりフランスと同様、戦争によって膨らんだ国家債務を株式に転換する金融構想があった。
ジョン・ローのミシシッピ・バブルと英国の南海バブル。この二つの事件は、金融史ではよく知られている。いずれも国家財政と金融市場・株式市場が結びついた近代金融初期の大実験であり、その危うさを示す大事件として語られてきた。
だが、この物語には、しばしば見落とされる第三の舞台があった。それがオランダである。1720年の投機熱は、パリとロンドンだけで完結したものではなかった。アムステルダムをはじめとするオランダでも、Windhandel、すなわち「風取引」と呼ばれる株式投機熱が広がっていたのである。
世界金融の中心地・オランダの「風取引」
実体(ファンダメンタルズ)の裏付けがない株価の大幅上昇のことを、早くも当時のイギリス人は、泡(バブル)と呼んでいた。泡は大きく膨らんでも、最後には弾けて消える。これに対して、当時のオランダ人が用いたのは「風取引」という言葉だった。