戦争孤児を題材にした理由
梯 西川さんとは二〇〇七年に『読売新聞』の読書委員として初めてお会いして、それから二年間ご一緒しましたよね。
西川 当時の私は長編映画を二本撮ったばかりの若手で、専門家の先生たちがずらっといるなかで、いつも隅っこで小さくなっていたんですが、梯さんが優しく声をかけてくださったので、読書委員会では毎回隣の席に座るようになりました。
梯 その後、『AERA』の人物ノンフィクション「現代の肖像」で、西川さんを書かせてもらいました。『ディア・ドクター』(二〇〇九年)の撮影現場や音入れに立ち会い、広島のご両親に話を聞き、高校時代の同級生の方々とも一緒に飲みに行き、西川さんをよく知る是枝裕和監督にも取材をして。
それと、私は西川さんの映画の取材にも協力しているんです。『永い言い訳』(二〇一六年)の中で、主人公が人から「(中学受験の)御三家」について聞かれたときに、地方出身者だからそれが何のことだかわからず戸惑う、という場面があるんですが、あれは元々私が言ったことなんです。あるとき、西川さんから電話がかかってきて、「梯さんって、御三家と言われて何を思い浮かべます?」と聞かれたので「私の世代だと、やっぱり郷ひろみと西城秀樹と野口五郎かな、私は野口五郎派だったけど」と答えたら大笑いして。
西川 はい、あの会話はそのまま使わせていただきました(笑)。
梯 西川さんとはそんな縁のある仲なんですが、今日は西川さんの最新作『わたしの知らない子どもたち』の話なので、早速映画の感想を。まず感じたのは、オリジナル脚本だということへの驚きでした。戦争をテーマにした映画というと、『火垂るの墓』にしろ『野火』にしろ、有名な原作を映画化したものが多く、その原作もたいていは戦争を実際に体験した作家が書いたものです。ところが、西川さんは戦争を知らない世代でありながら、当事者が書いた原作ものではなくオリジナル脚本で撮ることを選んだ。そのことにまず驚きました。
そこで思い出したのが、先ほど言った『AERA』の取材のとき西川さんから聞いた話です。西川さんが初めて是枝監督のスタッフを務めた『ワンダフルライフ』(一九九九年)の下取材のとき、ハンディカメラを持たされて、お年寄りに「今までの人生の中で一番良かったことはなんですか」と聞いて回った。そのときカメラを向けながら「何かいいことを言ってくれないかな、映画に使える話をしてくれないかな」と思ってしまった。そんな自分がイヤで、自分はドキュメンタリーではなく、上手い噓をつく、つまり完全なるフィクションを作る方向に行きたいと思ったと。
取材って、「これは自分の話ではない」と思い知るためにするようなところがある。今回、戦争や戦後の話を知るための取材をするなかで、きっと西川さんもその壁にぶつかったと思います。そのうえでやはり虚構=フィクションとして、自分のオリジナル脚本で戦争を描くことを選んだわけですよね。史実をもとに虚構を作り出すことの難しさや、今までの映画での取材との違いについて、まずは聞かせてもらえますか。
西川 『わたしの知らない子どもたち』の着想のきっかけになったのも、前作『すばらしき世界』(二〇二一年)の原案になった佐木隆三さんの『身分帳』という小説でした。小説の主人公は、昭和十六年に芸者と軍人との間に生まれた後、母親に養護施設へ預けられ、戦後は戦争で孤児になった子たちと一緒に施設から脱走する。そして、街の中であの手この手を使ってたくましく生きていくんですが、その部分が非常に活劇的で面白かった。予算の関係上、『すばらしき世界』では戦後の時代を描くことは諦めましたが、いつかこの話を別の映画にしてみたいなという気持ちは残りました。
それでコロナ禍に突入したとき、まずは戦争孤児の暮らしや証言を掘り起こしてみようと、いろんな資料を調べ始めました。当時は、二年後、三年後にはまた世界が一変しているかもしれないという状況で、現代劇を書くアイディアがなかなか浮かばなかった。でも過去の物語だったら安心して書けるんじゃないかと考えたのと、コロナ禍で感じていた閉塞感の反動のように、子どもたちが冒険する明るい物語を書きたいという思いもありました。
ただ、実際に調べていくうち、やはり現実を突きつけられていきました。実は戦争孤児研究はかなり後れて始められた分野なんです。というのも孤児として生きた子たちは、幼い頃には自分の言葉で境遇について話すことができなかった。当事者の方が立ち上がり、仲間を探して証言を集めたり、国に補償を求める団体を作り始めたのは、ようやく二〇〇〇年頃になってから。そうして集められた資料を一から読んでいきましたが、読めば読むほどひどい話なんです。私が『身分帳』で感じた子どもの冒険活劇というような印象では到底片付けられない、悲惨なことが山のように起きている。戦争がこうした子たちを生み出したわけですから当然ですが、これは思った以上に重い題材だなと痛感しました。
戦後に孤児となった女性たちにも実際にお話をうかがいましたが、親戚宅で虐待や差別的な対応を受けたり、心の傷は生半可なものではない。そういうものと直面していくと、おっしゃるように「これは自分の物語ではない」と突きつけられると同時に、この人たちの思いを商業映画で背負えるのか、という気持ちにもなりました。いいところだけを抜き取ってフィクションを書いていいんだろうかと、取材過程で何度も思い、そのたびに引き返そうかと思いました。
梯 自分は、作品のために他者の物語を盗んでいるんじゃないか、私もいつもその葛藤を抱えて取材をしています。一方で、この映画の英語タイトルが「Children Untold(語られなかった子どもたち)」であるように、これまでずっと語られずにきたことを自分が伝えたい思いもある。ノンフィクションを書くことはその両方を抱えることだと思っています。
そこで興味深いのは、この映画がフィクションであることです。フィクションとして描くというのは、二重の意味で「語られなかった」ことを描くことですよね。歴史的な経緯の中で誰にも語られてこなかったことを自分が語り手として引き受ける。現実をもとにしながらも実際には存在しなかった人たちの話を物語として作り出す。その二つの面を持つのがフィクションの力であり、そういう形でなければ伝えられないという思いが、西川さんの中にあったということでしょうか。
西川 どう語ればこういう物語をより広い層に届けられるか、ということは最重要の課題でした。たとえば戦争孤児や学童集団疎開を題材にした古い小説の多くは絶版になっていて、一般の人が読む機会は今後もなかなかない。映像の場合も、戦争を題材にしたドキュメンタリー番組や映画は今も作られていますが、そうしたものを自分から見ようとするのは、もともと戦争について知りたいという考えを持った人がほとんどで、関心を持たない人が積極的に触れようとするものとは少し違う。
かつては『火垂るの墓』のような映画は毎年テレビで再放送されるなど、多くの子どもも触れる機会がありましたが、今は内容が悲惨すぎて子どもには見せづらいという声があるとも耳にしますし、時代とともに、こうした題材に触れられる本や映像作品が身近に少なくなってきた気がします。戦争を知る方たちが亡くなられていくなか、このままでは本当に戦争のことを誰も知らない世界になっていくんじゃないか。私がその語り継ぐ役を担うぞ、とまで意気込んでいたわけではないんですが、商業映画だからこそのハードルの低さみたいなものがあるのなら、そこになんとか挑戦してみたい。この題材と向き合うなかで、徐々にそういう気持ちになっていきました。
ステレオタイプには陥らずに
梯 戦争体験については、私たちはちょうど狭間の世代といえます。自分では戦争を体験していないけれど、少し前までは戦争を実際に体験した人たちが身近にいて、話を聞くことができた。西川さんのお父さんは広島で原爆を見ているし、うちの父はかつて少年兵だった。それがさらに下の世代になると、親どころか祖父母の代も戦後生まれとなり、身近に戦争体験者はほぼいなくなっている。証言者がいなくなっていく以上、戦争体験を語り継ぐ形も変わっていくしかないだろうなと思います。
ただ、証言者がいなくなることは、決して悪いことではない。あれから八十一年間、私たちが戦争をしていないことの証なわけですから。そのうえで、これから先どうやって戦争体験を語り継いでいくか。そこで重要になってくるのがアートの力だと考えています。
私がアートの力を実感したのは、写真家の石内都さんが広島で原爆の犠牲になった方々の着ていた衣服を撮影した写真集『ひろしま』と出会ったときでした。石内さんは、女性たちが着ていたワンピースやスカート、ブラウスなどを美しく撮っていて、最初に見たときは「被爆死した人の遺品をこんなふうに美しく撮ってしまっていいんだろうか」と驚きました。でも石内さんは、亡くなった方たちがそれらの服を着ていた、まさにそのときの美しさに近づけようとして撮っているんです。その美しさが、今を生きる人たちとの回路になる。
大学生への講演で、石内さんの写真を見せたとき「戦時中のことが、初めてカラーになりました」と言われたんです。自分たちと同じようにおしゃれをしていた人たちが戦争に巻き込まれ、原爆によって亡くなった。ということは、今の私たちにだっていつ同じことが降りかかるかわからないということですよね、と。美しい表現によって過去と繫がる、そういうアートの力はあると思います。
原民喜の小説『夏の花』にもそうした力がある。書いてあること自体は悲惨ですが、彼の書く文章には取り替えのきかない唯一無二の美しさがある。それと同じ力を、『わたしの知らない子どもたち』にも感じました。描かれている出来事は辛く悲しいものだけれど、同時に本当に美しい映画だった。もし画面が暗くて陰惨だったら、やはり見るのを辛く感じていたと思います。
西川 戦争映画や戦後を舞台にした映画って、だいたい画面に色彩が乏しいんです。実際に食べ物も着るものもろくになかった時代だから、作り手がそう解釈して描くのも自然なのですが、画面を見た瞬間に、「ああ、戦争ものだ」と固定されたイメージを重ねて見るのをやめてしまう人たちは少なからずいるでしょう。そういう人たちに「これなら見てみたい」と思えるものを作りたい、ということは意識していました。当事者から見れば史実と違うと感じる部分は色々ある映画かもしれませんが、今回はリアルな再現であることより、いかに戦争を知らない世代に手を伸ばしてもらうかに力を入れたつもりです。
梯 そうはいっても、ものすごく調べていますよね。性病の検査をする検黴(けんばい)の場面など、とてもリアルに再現されているように感じ、驚きました。
西川 一応いろんな資料を調べてはいます。細かな部分では多少のフィクションが入っていますが、実際にはなかったような悲惨なことは書かないよう心がけていました。もう一つ、私の中では今回宿題がありました。自分は今まで子どもに見せられる映画をほとんど作ってこなかった。ずっと大人が見る映画ばかり、家族では気まずくて見られないような映画を作り続けてきて、一度でいいから、子どもにも見せられる映画を作ってみようと思ったんです。
だから、戦争を描いてはいても、目を覆いたくなるほど激しい空襲の場面だとか、死体がたくさん出てくるとか、いわゆる肉体的な悲惨さの再現はしていないつもりです。そうしたインパクトの強い場面を目指していくと、いかにリアルにやったか、という自己満足が作り手には絶対に伴う。それが嫌なんです。
梯 ノンフィクションでも、書いているうちに、もっともっと悲惨に、とより過剰な描写に走ってしまうことがあります。私がノンフィクションを書き始めた当時は、戦争の惨むごたらしさを強調した作品も多くて、戦争を書くってそういうものかと思っていたんですが、あるとき、戦没者の遺族や復員兵たちが集まる会の方に「あまりに悲惨すぎる話は、遺族が悲しむ」と言われてハッとしました。
悲惨さを強調した戦争もののノンフィクションをよく読んでみると、実は過去にも書かれた残酷な描写の使い回しになっていることがある。タブーを破ってリアリティを追求したつもりが、悲惨さを競うみたいになっていってしまうんですね。
西川 今は、第二次大戦を振り返るいろんな映画が世界中で生まれていて、その中には一滴も血が流れない表現をしている映画もある。私たちの世代だからこそ、これまでとは別のアプローチで戦争は描けるはずだと思います。
当事者性の問題をどう考えるか
西川 衣服についても、戦時中はみんな質素で色彩のないものを着ていたと思いがちですが、実は終戦間際になるまでは、不自由なりにいろんな服装を楽しんでいて、女の人は着物や洋服でも赤とかピンクとか本当に華やかな色を着ていたんですよね。だからこの映画では、琴子がピンク色のセーターを着ているという描写を入れました。
梯 子どもたちが疎開先から戻ってきた上野駅で、群衆が暗い色の服を着ているなか、琴子だけ明るい色のセーターを着ているでしょう。あれは、空襲で焼け出された東京の人たちと違って、疎開地にいた彼女は以前から着ていた華やかな色合いの服しか持っていないからですよね。石内都さんが写した色鮮やかなワンピースやブラウスのように、画面のなかであのセーターがひときわ輝いていてとても美しかった。
さらにここは、彼女の非当事者性みたいなものが浮かび上がる場面なんですよね。のちに琴子が闇市で知り合って行動を共にする将吉から「おまえは見ていないからわからないんだ」と言われるように、たしかに琴子は東京大空襲を見てはいない。だけど琴子がまったく当事者でないかというともちろんそんなことはなくて、彼女もまた戦争によって家族も家も失った犠牲者です。この複雑な当事者性の問題について言うと、西川さんの場合、生まれ故郷である広島と、表現者としてどう関わるか、という問題もありますよね。
西川 広島では、被爆者の方々が原爆の被害や後遺症について長年語り継いできました。そういう土地で生まれ育った者として、表現者として、いつかその語り継ぎのための作品をやってくれるのでは、という期待はこれまでもずっと感じてきました。だけど一方で、どうして広島や長崎や沖縄の作り手だけがその使命を背負わなきゃいけないのか、とも思うんです。たしかに私の身近には原爆の被害を見てきた人がいましたが、だからこそ、その人たちの語りを全く同じ熱量で受け継ぐのは不可能だと思ったのです。無理にそれをしようとすればそれこそ噓になってしまう、そんな気がします。
むしろ今回の取材を通して気付かされたのは、広島という土地で育った自分は、他の地域の被害について何も知らないということでした。そこでまずは東京を舞台に書くうち、東京大空襲から疎開先の話、青森の空襲のことも登場してきた。いかに自分とは遠ざかったところから戦争を書いてみるか、それが自分への課題になった気がします。
梯 題材を対象化できなければ表現は生まれませんし、そのためにも、自分がよく知っていることだけでなく、むしろ知らないことに挑んだ方がいいこともある。経験的にそう感じています。
私が『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(二〇〇五年)を書いたきっかけは、栗林さんが硫黄島から送った「訣別電報」の内容が実は大本営によって改ざんされていたのを発見した、ということでした。辞世の歌でさえ、末尾が「散るぞ悲しき」から「散るぞ口惜し」に書き換えられていた。兵士が死んでいくことを指揮官が悲しいと詠うことは許されない、という判断だったわけですが、この事実を知ったとき、これは世に出すべき事実だと思いました。ところがそれを元軍人の方に話したら「まあ、それはそういうものですから」と言うんです。彼に言わせれば、栗林さんだって悔しい思いはあっただろうし、それを大本営が汲み取って直すことに問題はないんだと。
彼の反応に驚きながら、当事者だからこそ一歩引いて見られないものってあるんだなと実感しました。彼の立場からすれば、「今のあなたたちには、当時の軍人の気持ちはわからないだろう」と言われるかもしれない。それでも、当時のことをわからない者が、取材をするなかでこれはおかしいと感じる、そのことにも十分意味があるんじゃないか。
石内都さんと広島市現代美術館で対談をしたとき、やはり当事者性の話になりました。私はこれまで戦争について書いてきたけれど、原爆や沖縄戦のことについては臆する気持ちがあって、自分には書く資格がないんじゃないかと思っていた。でも石内さんの写真を見て、このブラウス、このワンピースのことなら書けるかもしれないと思った。そんな話をしたら、対談後の質疑応答でひとりの女性が手を挙げて、「ずっと広島に住んでいる私だって、被爆を経験した世代ではありません。その意味では、この先はほぼ全員が当事者ではなくなっていくんです」と話されました。だから広島以外の人にも広島を表現してもらった方がいいんだと。戦争から遠ざかっていくということは、誰もが当事者性からは遠くなり、差がなくなっていくことでもある。そうなったときに、西川さんが言われたように、戦争について積極的に知ろうとする人だけではなく、普通の感覚の人たちが戦争について気軽に触れられるような映画や本が、さらに必要になってくるのかもしれません。
ノンフィクションからの影響
西川 今回、女性を主人公に、しかも思春期の女の子を描くのも私にとって初めての試みでした。戦争を描くとき、子どもや女性はどうしても脇役になりがちで、なかでも女性は男たちが始めた戦争に巻き込まれたかわいそうな人として描かれることが多いのですが、彼女たちにも絶対に戦争に加担していた部分がある。琴子の担任だった曽根文美子というキャラクターが生まれてきた背景には、女性を描くからといって被害者一辺倒で描くのは嫌だなという気持ちがありました。
曽根先生を描くうえでは、梯さんが書かれた『昭和二十年夏、女たちの戦争』(二〇一〇年)も助けになりました。