風向きが厳しくなる中で、官邸の空気感にも変化が
高市早苗首相は渦中の簗氏について、10月13日の衆院予算委でこう言い放った。
「本当にダサイ。その人が行政の運営をしていっていいのかどうか含め、しっかり考えさせていただく」
4日前には「人一倍働いて欲しい」と、簗氏の更迭を否定したばかり。“何を今さら”の感がどうにも拭えない発言ではあった。
発端は『週刊新潮』(10月1日発売号)が、栃木県の自民党大田原支部で5月24日に開かれた会合でのやりとりを、録音されたデータをもとに報じたことだ。そこには、簗氏のこんな発言が収められていた。
「那須烏山市と那珂川町の令和8年度の道路予算については、大幅にカットをしました」
この地元自治体への“恫喝”は大きな衝撃を与えた。
「新聞やテレビも直後から、こぞって恫喝音声問題を取り上げましたが」
とは全国紙政治部デスク。
「当の簗氏は5日の会見で渋々発言を撤回しながら、国交省への働きかけについては頑なに否定しました。翌6日、国交省も簗氏から予算配分額に関する問い合わせがあり、これを受けて予算を『整理』したうえで簗氏に後日報告したことは認めたものの、働きかけ自体は否定。簗氏の会見と歩調を合わせた形です」(同)
だが、新事実も明らかに。
「国交省によれば、簗氏が問い合わせた時期は2月中旬、つまり簗氏が2月8日の総選挙で無所属候補に敗れ、辛くも比例区で救われる結果となった直後でした。また、簗氏が実際の予算配分額を聞いたのは、具体的な額が決まった4月7日以降だったとも。簗氏の問い合わせが予算配分に影響した可能性は排除しきれず、疑惑は深まっています」(同)
風向きが厳しくなる中で、官邸の空気感にも変化が生じているという。
「官邸サイドは当初こそ、“簗は自分を大きく見せたかっただけ”と位置づけ、問題視しない姿勢でした。ところが最近は、首相周辺からも“説明責任を果たしていると国民が受け止めてくれるなら持つけど、そうでないならばもう持たないよね”などと突き放す声が洩れてきています」(同)
大臣就任早々、政権のお荷物と化した簗氏。政界入りは2012年。自民党を離れた渡辺喜美氏がみんなの党を発足させたため、空席になった栃木3区の自民党支部長に簗氏が公募で収まったことに始まる。
元大田原市長で簗和生後援会総連合会の最高顧問をつとめた千保一夫氏が言う。
「初めて簗と会った時は若くて真面目そうな印象でね。私は支持基盤作りを手伝いました。12年の総選挙では渡辺さんが飛ぶ鳥を落とす勢いで、簗は農協の全面的な支援を受けて辛うじて比例復活できたのです」
また、渡辺喜美氏は新人時代の簗氏をこう振り返る。
「簗さんは1年生議員のころから“ストレート戦法”の人でした。地元で道路関係の陳情を受けると、すぐさま国交省に電話してしまう。ところが、国交省側はそもそも自治体から要望を受けておらず、県に問い合わせても何も把握していない。結果、行政が混乱に陥ることもままありました」
14年の総選挙では渡辺氏が金銭問題で失速。簗氏が勝利を収めた。が、自民党関係者が言うには、
「2期目から簗の増長ぶりが目立ち出し、周囲との軋轢が生じるようになった。当時の県政の実力者で選対本部長だった人物と対立するのみならず、集票マシンの建設業協会からも“簗の態度が悪い”と愛想を尽かされた。また、17年の総選挙勝利後には、後援会最高顧問の千保氏との関係を自ら断ち切る始末でした」
前出の千保氏が明かす。
「簗は何の通達もないまま私を最高顧問から外し、代わりに当時の大田原市長だった津久井富雄をトップに据えました。元市長の私よりも現職のほうが力はあると思ったのでしょう。簗には裏切られた気分でしたよ」
「国家権力の側にいるのは、当選した私だ」
初当選時からの恩人をも躊躇なく切り捨てる。人間関係を損得でのみ捉えるような簗氏のそうした振る舞いは、地元に保守分裂のタネを撒いた。
「分裂が表面化したのは24年10月の総選挙でした。公示日直前、自民党員としての籍を持つ新人の渡辺真太朗氏が無所属で3区に出馬。簗陣営の元選対本部長や建設業界の支援を受け、裏金問題で逆風下にあった簗氏に178票差まで迫りました」(先の自民党関係者)
簗氏の焦りは相当なものだったらしい。地元の政界関係者が打ち明ける。
「24年の選挙後、簗氏は毎日のように自民党那須烏山支部長の沼田邦彦県議に電話をかけたといわれます。当時、渡辺(真太朗)氏は那須烏山支部の所属だったため、簗氏は“あいつを除名しろ”と執拗に迫ったそうです。いわく“除名すれば、次の選挙で当選したところで無所属だから”と」
沼田県議は対応に苦慮し、県連側に相談したという。
「これには県連側も困惑し“党員資格停止や離党勧告など段階を踏まえるのが筋で、いきなり除名はできない”という反応だったと聞いています」(同)
それでも簗氏は諦めず、