島唯一の総合診療・救命救急の砦
島固有の高山植物が多いことから「花の浮島」と呼ばれる礼文島だが、冬場は日本海の荒波と猛烈な西風がその色彩豊かな風景を一変させる。高い木々が少なく、なだらかな地形のこの島を吹き抜ける強風の威力は凄まじい。地面に積もった雪が巻き上がる「地吹雪」で視界は奪われ、数メートル先にあるはずの電柱や家影さえも見えなくなる。常に風の重低音が島全体を震わせ、時折、家々の隙間を抜ける風が獣の咆哮のような高い音を立てる。
礼文町国民健康保険船泊診療所所長の医師、升田晃生はその音を聞き、色彩を失った窓外を眺めながら、
「こんな日に急患が出たらまずいな」
と思った。ふと、数十年前のある冬の日の記憶が脳裏をよぎる。その日も朝から海上時化(しけ)と暴風がひどく、当時の所長で島民から〝赤ひげ〟と頼られていた父・鉄三も同じように思ったことだろう。
そんな日に限って事は起こる。夜半、診療所からの緊急呼び出し電話のベル音が自宅に鳴り響き、家族全員が叩き起こされた。父の電話応対の声を聞いて、小学生低学年の晃生にも急患が担ぎ込まれたことがわかった。フェリーもヘリコプターも航行不可能なことから、鉄三は即座に手術を決めた。晃生が当時を振り返る。
「父はどんな緊迫した状況下でも、落ち着いてテキパキと対応していたのを心強く感じたことを覚えています」
そして翌朝、手術が無事に終わったことが晃生にも知らされた。
あの人が助かったんだ、自分の父親が命を救ったんだ――その事実は少年の心を震わせた。島で医師がいかに大事な存在かということを子どもながらに実感し、「自分もいずれこの島の医師になる」という思いが最初に輪郭を結んだ瞬間だった。
礼文島は北海道稚内市の西方約60キロ、定期船で約2時間を要する、北方四島を除けば日本最北の有人島である。人口減のペースは本土以上に急激で、晃生が生まれた1985年には5000人以上いた島民が現在では約2100人にまで減少、高齢化率は39%に達している。医療機関は島北部にある町立の船泊(ふなどまり)診療所と、南部にある道立香深(かふか)診療所の2軒のみ。後者は入院設備もなく訪問診療や介護などにも対応していないので、事実上、晃生が所長を務める船泊診療所が島唯一の総合診療・救命救急の砦ということになる。
船泊診療所の歴史は古い。創設は1954年、初代院長を務めた外科医の柳谷誠三氏は、当時の礼文島の風土病であったエキノコックス症(キツネの糞便に混ざった寄生虫卵が人の口から入り、体内で肝臓などに寄生して臓器機能障害を引き起こす病気)の実地研究者としても知られる人物だ。日本で最初にエキノコックス症が確認されたのは小樽市で、その患者の出身地が礼文島だったとされている。その後、島内で次々と患者が確認され、柳谷氏は最前線で研究に取り組んだ。その偉業は伝聞や記録だけでなく、リアルな痕跡としても今に残っている。
「外来で80~90代の患者さんの腹部を診察すると、古い手術痕があるんです。聞けば、それは柳谷先生の時代のもので『あの頃は麻酔があんまり効かなくてよ。タオル噛まされながら手術されたわ』なんてエピソードも教えてくれて。今以上に医療資源が限られていた当時、離島で外科医として生きるには今とは比べものにならないほどの困難があったろうな、とそうした手術痕を見るとしみじみ思います」
その柳谷氏は、実は晃生の母の伯父にあたるという。つまり、医師としての使命感で難事に取り組んだ柳谷氏のDNAが、時を経て晃生に受け継がれているのだ。そしてもうひと筋、彼の中に流れているのが、長年かけて診療所の体制を大きく向上させた父・鉄三のDNAだ。
妥協なき「島内完結型の医療」への挑戦
晃生の父・升田鉄三は礼文島出身。町の奨学金を受けて秋田大学医学部へ。その後、1986年5月に故郷に戻り船泊診療所に赴任して以来、ずっと島に残り続け、晃生に所長を引き継いだ今も現役の医師として患者と接している。
彼が約40年かけて築き上げてきたものは大きい。EBM(Evidence-Based Medicine/根拠に基づく医療)を基本方針とし、住民健診・がん検診、訪問診療、人工透析、眼科・産婦人科の出張診療、精神科の遠隔診療、MRIや高速CTの導入、理学療法の整備、さらにはドクターヘリの運用まで、充実した医療体制を地道な努力で構築した。
かつては末期の腎不全となれば島外への転居を余儀なくされたが、「島民たちが生まれ育ったこの地で最期を迎えられるように」と、あらためて透析医療について学び直した上で必要な機器を揃えたそうだ。
「父は『離島だからこの程度の体制でも仕方ない』と諦めたり妥協することなく、『離島でもこれだけの医療が受けられるんだ』と島民を安心させたい、その一心で島内完結型の医療体制に取り組んできたのだと思います」
父の背中を見て育った晃生はそう話す。幼少期から、母と出歩けば道行く人たちに「いつも先生にはお世話になっています」と感謝の言葉をかけられ、自然と「いずれは自分も父のようになりたい」と思うようになっていったという晃生。冒頭で触れた緊急手術の一件もあって、いつしかその思いは「この島で医師になる」という明確な目標になった。その目標は札幌市の中高一貫校へ進学した後もブレることなく、医学部生や勤務医時代も常に「礼文島での医療」を念頭に置き続けたそうだ。
「授業で様々な疾患について学んだり、臨床現場で症例を経験する際には、常に『もし礼文島で遭遇したらどう対応すべきか』をイメージトレーニングしていました。外科医となってからも、大きな病院で働いていると専門外の症例はコンサルテーション(他科の専門医に診療を依頼すること)をするのですが、その後の診療内容や経過を追跡し、ノートに記録して知見を蓄積するよう心掛けました。自分が医師になって10年後には父が定年を迎えることが分かっていたので、消化器外科という専門を柱とした上で総合診療の裾野を広げ、どんな事態にも対応できるジェネラルサージャン(総合外科医)になることを目指したんです」
礼文島に赴任する1年前には、当時所属していた病院の院長に許可を得て初期研修をもう一度受け直し、知識のブラッシュアップを図った。同時期、晃生が初めて父に「自分も礼文島の医師として生きていくつもりだ」と伝えると、鉄三は「そうか」とだけ返しながらもどこか嬉しそうだったという。
そして2020年4月、晃生は宣言通り礼文島の船泊診療所へ。それ以来、父とともに島民の命と向き合う日々を送ってきた。……