向田作品でデビューしたきっかけは樹木希林
――1970年代、テレビドラマ界では山田太一、倉本聰、早坂暁など独自の作家性を持つシナリオライターが注目されていた。その中で向田邦子は、演出家・久世光彦と組んだ「寺内貫太郎一家」(1974年)のヒットで人気ライターの仲間入りを果たした。以後彼女は、「冬の運動会」(1977年)、「家族熱」(1978年)、「阿修羅のごとく」(1979~80年)、「あ・うん」(1980~81年)、「幸福」(1980年)など、それまでのホームドラマの枠をはみ出た、シリアスな性と愛をテーマに描く、作家性の強い話題作を次々と発表。また1976年からはエッセイも執筆し、『小説新潮』に掲載された小説集『思い出トランプ』シリーズの短編3編によって、第83回直木賞を受賞している。一方、風吹ジュンは1973年にモデルとして芸能界に入り、翌年には歌手デビューも果たすが、歌は自分に合わないと感じた彼女は、歌手を辞めようとしていた。そんな22歳の時に舞い込んできたのが、向田邦子脚本による「寺内貫太郎一家2」への出演話だった。風吹がドラマに出演し始めたのは、向田邦子が脚本家だけでなく、執筆業へも乗り出す、直前の時期だったのである。
風吹 当時の事務所と話し合い、歌手を辞めることになりました。新規のドラマ出演が許されて、それが「寺内貫太郎一家2」だったんです。私の俳優デビュー作とはいえ、今思えば、よく出たなと思います。私がいただいたのは寺内家の長女・節子で、これはパート1で梶芽衣子さんが演じたポジションの役柄でした。ドラマのファンの方からすれば「エーッ、なんでこいつが」みたいな感じだったと思いますよ。
鈴木 でも当時、風吹さんは人気があったじゃないですか。
風吹 テレビドラマのファンからすれば、異端児が入ってきた感じだと思います。ただ、当時の私はテレビを観る習慣がなく、パート1も観ていなかったので、プレッシャーみたいなものは感じなかったんです。
鈴木 出演するにあたって、このドラマでお婆ちゃんの寺内きんを演じた、樹木希林さんの口添えがあったそうですね。
風吹 はい、希林さんが面白そうな子がいると推薦してくださって、久世さんや向田さんも『まあ、それならいいんじゃない』という感じだったそうです。ただ、当初は私の出演を辞めさせようとする動きもありました。“ある方”に私と久世さん、希林さんが呼び出されて、テレビ局のリハーサル室で会ったんですね。その方は私の過去に関して、あることないことを散々言い立てて……。その時、「もう、ドラマに出る話はおしまいだな」と思いました。でも“ある方”が帰った後、希林さんがポロッと涙を流して、『よく耐えたね』って言ってくださいました。その言葉を聞いた時、「え! 信じてくれる人がいるんだ」と驚くとともに「私はここにいていいんだ」と思えたんです。
鈴木 自分の居場所が見つかったんですね。
風吹 ええ、ここでなら生きられると思いました。希林さんが愛情深く接してくださって、お母さん役を演じた加藤治子さんにも素直に甘えられました。演技は素人ですからご迷惑をかけましたが、皆さんそんな私によく付き合ってくださいました。
鈴木 すぐにドラマの現場には、溶け込めましたか?