※本稿は「週刊新潮」2011年9月29日号に掲載された特集を元に再構成したものです。
「スクリーンに映っていたのは、あなたのお父さんよ」
初めての映画出演は1951年の「舞姫」でした。これまで180本以上の作品に出演しましたが、子供の頃は女優になろうなんて、考えてもいませんでした。
東京で生まれ、母一人娘一人で育ちました。母は宝塚歌劇団の男役スターとして舞台に立っていましたが、父の死後、ダンスの教師などをして私を育ててくれました。父は亡くなったと聞かされていましたが、何をしていた人なのか、母は話してくれませんでした。
1945年3月の東京大空襲の後、私たち母娘は新潟市に疎開し、高校卒業までの6年間、新潟で過ごすことになります。高校では演劇部に入っていたのですが、2年生の秋頃、演劇部の友人との帰り道、偶然にも映画館に貼られたサイレント映画「瀧の白糸」のポスターを見つけ、「無声映画ってどんなんだろう」という思いから、二人で映画館に入りました。当時は桟敷のある2階で見た記憶があります。その夜、夕食をしながら、母に、
「今日、面白い映画を見たわ」
と話すと、初めて母は父のことを語ってくれました。
「スクリーンに映っていたのは、あなたのお父さんよ」
〈岡田さんの父親はサイレント映画時代の二枚目俳優・岡田時彦(本名・高橋英一)。1920年、17歳で大正活映(大活)から映画デビューした。当時、同社で文芸顧問をしていた作家・谷崎潤一郎に、岡田時彦の芸名を付けてもらう。小津安二郎、溝口健二監督などの作品に出演し、人気を博すが、結核のため30歳の若さで亡くなる。岡田茉莉子さんはその時1歳だった。〉
母から父のことを聞いた翌日、また映画館に「瀧の白糸」を見に行きました。俳優として岡田時彦を見に行ったのではなく、父親の顔を見たかった、というのが本当の気持ちでした。
「岡田時彦さんのお嬢さんなら、僕が名前を付けたい」
高校を卒業後、東京に戻りましたが、当時は18歳の女の子が働くようなところはありませんでした。そんな折、東宝に勤めていた叔父に、
「学校の延長だと思って、行ったらどうか」
と勧められて入ったのが、東宝演技研究所でした。ところが入所後1週間たったある日、突然カメラテストを受けさせられ、それが女優としての道を歩む第一歩となりました。デビューするにあたって、谷崎潤一郎先生が、
「岡田時彦さんのお嬢さんなら、僕が名前を付けたい」
と言ってくださり、谷崎先生の熱海のお宅に伺いました。先生はとても懐かしがってくださって、