<span>「骨太の方針」はなぜ薄っぺらになったか――高市政権を蝕む主犯は「カスティーリャ主義」だった</span>

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「骨太の方針」はなぜ薄っぺらになったか――高市政権を蝕む主犯は「カスティーリャ主義」だった

2026年7月22日

高市早苗政権の「骨太の方針」は未曽有の失態をもたらした。国の経済・財政政策の骨格を定めるはずの文書が、市場の懸念から大幅な修正を余儀なくされたのだ。こんな事態を招いた理由は、時計の針を巻き戻すと見えてくる。2011年の東日本大震災と原発事故以降、日本では右派も左派も「根拠のない全能感」の虜になってきた。リフレ、デモの流行、そしてMMT……。スペインの保守思想家オルテガの名著を手掛かりに、「無限性」に捕らわれ幼児化する社会の罠を衝く。

 ふだん使っている銀行から「損をする預け方になっている」との旨で、電話がかかってきてしまった。金利が上昇したせいで、(昔の金利で)定期預金を続けるよりも普通預金の方がいまや、利息が多くもらえるらしいが、その定期を組んだのはわずか2年前である。

 預金者ひとりならどうということもないが、国の政府まで同じくちぐはぐなのは困ったものだ。7月10日には長期金利の急騰を受けて、片山さつき財務相が「骨太の方針」の原案を修正していると認め、どこが骨太なのだと報道陣を呆れさせた。

 長期金利の指標となるのは、10年物の国債の利回りである。これが一時2.9%まで上がったのは、日本政府の信用が落ちているからだ。経済運営があまりに危なっかしいので、「10年間もお金を預けるなら、相応の利息(リスクプレミアム)をつけてくれないと、とても貸せませんよ」という、市場からのメッセージである。

 そうなる理由はもちろん、インフレなのに高市早苗首相がじゃぶじゃぶと積極財政を行い、金融の引き締めを遅らせているからである。ところが、イラン戦争の頃から落ちてきたとはいえ、政権の支持率はなお5割前後を保ち、近年にない期待の高さを見せる。

 どうして、そんな現象が起きるのか。考える上でうってつけの一節が、政治思想の古典にある。

19世紀中葉以降、平均人は自分の前にいかなる社会的障壁を見出さなかった。つまり社会生活の諸形式の中に、生まれながらにして何の束縛にも制限にも出会わなくなった。何ものも彼の生に抑制を迫ることはなかった。ここにも「広大なるかな、カスティーリャ!」が見てとれる。

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、127頁(表記を算用数字に改変)

 著者のオルテガはスペインの保守思想家で、同書は1930年に発表された。「広大なるかな、カスティーリャ!」とは、ビュッフェ形式の料理などを「いくらでもお取りください」と勧める際の決まり文句で、オルテガはそれを皮肉を込めて使っている。

 無限の可能性を与えられて「あなたはなんにでもなれる」と言われたのが、19世紀以降、ヨーロッパの近代社会に現れた大衆だが、そう聞くと多くの人はかえって「何になったらいいのか」がわからなくなる。結果として互いに周囲の顔色を見ながら、折々の社会の平均でいることに満足する、個性も信念もない人ばかりが増えてゆく(拙連載第3回)。

 オルテガが論じたのは、精神面での自由の堕落についてだが、「広大なるかな、カスティーリャ!」はそれ以上に、物質的な無制約さに基づく放逸を連想させる。資源は無限にあるから抑制など要らず、いくらでもやりたいことをし放題してかまわないという発想は、まじめな思考を麻痺させて、無責任な付和雷同に帰結する。

 まもなく8月に出る座談会形式の共著『常夜の読書会』(潮出版社)でも論じたが、こうしたいわばカスティーリャ主義(?)が、ここ十数年の日本の政治論議をダメなものにしてきた。高市政権の方針がちっとも骨太でないのは、単にその終着点にすぎない。

 思い出してほしい。2010年代に入ってこの方、世に流行る論調はみな、パワーやリソースの「無限大ぶり」を誇るものばかりだった。

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