<span>【谷崎潤一郎生誕140年】女優・岡田茉莉子が明かす秘話――谷崎から父への弔辞、その数奇な運命</span>

特集|カルチャー

Vol. 20

【谷崎潤一郎生誕140年】女優・岡田茉莉子が明かす秘話――谷崎から父への弔辞、その数奇な運命

2026年7月26日

今年、生誕140年を迎えた谷崎潤一郎、その素顔を名付け親として親交があった女優・岡田茉莉子さんが語る。記事後編では、谷崎の死後に岡田さんが演じた谷崎作品の舞台と、谷崎から父への弔辞がたどった数奇な運命について——。

本格的な初舞台となった『細雪』次女役と、「目を見開いたまま」盲人を演じた『春琴抄』

 1965年の7月末、私の父・岡田時彦と私・岡田茉莉子の名付け親である谷崎潤一郎先生が、79歳で亡くなりました。

 その翌年、私は谷崎先生の長編小説『細雪』の舞台版に主演する機会に恵まれました。『細雪』は大阪、船場の老舗に育った4人の姉妹をめぐる物語です。私の役は、谷崎先生の奥様となられた松子さんがモデルの次女の役。長女は浦島千歌子さん、三女は司葉子さん、四女は団令子さんが演じました。

 私にとってこれが本格的な舞台への初出演作となったのですが、それが他でもない私の名付け親、谷崎先生の作品であったことには運命的なものを感じます。公演中には松子さんもお見えになり、

「谷崎が存命でしたらきっと喜んだでしょう」

 と言ってくださったのがとても嬉しかったです。

 その後、私は『春琴抄』の舞台にも春琴役で出演しました。大阪の薬種商の娘として生まれたお琴は幼くして失明しますが、丁稚の佐助に手を引かれて三絃を習いに行き、やがてその才能を開花させ「春琴」と名乗るようになります。春琴に恋をした佐助はみずからも三絃を習い、一生を尽くす決心をするのですが、春琴はある事件で顔に大きな火傷を負ってしまい、佐助を自分から遠ざけようとします。そこで佐助は針でわが両眼を刺し、同じ盲目となっていつまでも春琴に添いとげます。

 この盲目の春琴を演じるにあたって、眼を閉じて演じるか、眼を見開いたまま何も見えない演技をするかでとても迷いました。より真に迫った芝居を見せたいという思いで、目を見開いた春琴に挑戦したのですが、演じるにあたってあらためて『春琴抄』を読み直し、谷崎先生が描いた盲目の世界に圧倒されたのを覚えています。本当に凄い作品だと思います。

 ちなみに、松子さんはこの公演にも来てくださり、春琴が火傷の跡を隠すために古代紫の御高祖頭巾を着けていたことに触れて

「谷崎もあの色の頭巾が好きで、女を美しく見せる色と言っていました」

 と話されていたのが印象的でした。

 

三十数年ぶりの父・岡田時彦の“帰宅”

 これも谷崎先生の死から数年後の話ですが、思いもかけず母と私が谷崎先生と父の思い出に触れる運命的な出来事がありました。このことをお話するにはまず、母と父の出会いに遡らなければなりません。

 母が父と出会ったのは、東京がようやく関東大震災から復興し、舶来趣味がもてはやされる昭和モダニズム全盛の時代でした。そうした中、映画俳優の父は当時ハリウッドで人気のあった二枚目スター、ルドルフ・ヴァレンティノにその面影が似ていたことから「和製ヴァレンティノ」と呼ばれるほどの人気だったそうです。一方、母も男装の麗人スターとして宝塚の華やかなステージに立っていました。

 母は宝塚を去って父と一緒になりましたが、その時すでに肺結核に冒されていた父は私がまだ1歳の時、1934年に30歳の若さで亡くなってしまいます。そして、京都の誓願寺で行われた葬儀の際、弔辞を読んでくださったのが谷崎先生でした。亡き岡田時彦に「君ハ幻戯ノ名優ニシテ――」と呼びかける素晴らしい内容だったのですが、この弔辞をめぐって事件が起こります。母が父のお柩に弔辞を入れようとした寸前、参列者の誰かが持ち去ってしまったんです。

 母には持ち去った人物に心当たりがあったそうですが、いろいろな事情があって言い出すことができず、結局、手元に弔辞は戻らないまま30年以上の年月が流れました。しかし1968年の夏、川端康成先生から一本の電話が入り、事態は一変します。それは、なんと川端先生が神田の古書店でその弔辞が売りに出されているのを見つけたという報せでした。しかも「そちらで必要だと思って私が買っておきました」とのことで、さっそく送ってもらうことに。

 数日後、谷崎先生が父のために書き記し、葬儀で読み上げた弔辞が、母と私のもとに届けられました。それは三十数年ぶりの父の帰宅と言ってもいい瞬間でした。その夜、硝子張りの額に納められた弔辞を目の当たりにした母は「よく帰ってきてくださいました」と涙を流しました。

 父の葬儀で弔辞が持ち去られたことは母にとって本当に悔しく、辛いことだったことでしょう。でも、もし母がお柩の中に入れていたら、弔辞はその時点で灰になってしまっていたわけです。実際にはそうはならず、35年の時を経て私たち母娘のところに戻ってきてくれた。運命のいたずらとしか言いようのない出来事だと思います。

 私は、その運命のいたずらのおかげで、燃えてなくなるはずだった弔辞を読む機会に恵まれました。大きな一枚の和紙に見事な墨筆で記されていたその全文を引用しておきましょう。

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