何に対してなら「お金を払いたい」と思えるか
「革命」の時代には必ず、変化を恐れる人たちが現れます。例えば18~19世紀の産業革命のさなか、工場労働者たちが「機械に仕事を奪われる」と信じ機械を破壊するという「ラダイト運動」を起こしました。しかし、結果はと言えば、産業革命はむしろブルーカラーの雇用を増やすことになった。同じように、1990年代半ばからはじまった情報通信革命(IT革命)は、ホワイトカラーの労働需要を世界規模で創出しました。新しいテクノロジーは、既存の仕事を壊すと同時に、それまで存在しなかった仕事を生み出してきたのです。
私は、AIも同じ文脈で捉えるべきだと思います。AIの登場は人間の「脳の働きの拡張」をもたらす、一種の産業革命です。人々は今後、AIがあることを前提に、新しい価値を生む仕事を作り出していくことになるでしょう。これは人類の歴史が繰り返し証明してきたことなのです。
例えば、自動車が発明されるまで、タクシーは存在しませんでした。そもそも、個人が車を所有するなど、誰も想像しなかった。高速の移動手段といえば馬で、しかもほんの一部の特権階級だけのものでした。それが大量生産によって「一人一台」が当たり前となり、運転手・修理工・ガソリンスタンドの店員など、それまで存在しなかった仕事が無数に生まれました。
ただし、今回の“AI革命”には一点、明確な現実があります。それは、デスクワーク系の生成AIが猛烈な勢いで賢くなっていて、定型的なホワイトカラーの仕事のかなりの部分が確実にAIに置き換わるということです。これは議論の余地がありません。「半分が置き換わる」だろう、という予想もありますが、私に言わせれば「半分で済んだらいい」という感覚です。
なぜなら、これまでのデスクワーク系の仕事や、エンジニアが担ってきたコーディングなどは、AIを使えば誰もが簡単にできるようになってしまうからです。AIにやらせれば同じアウトプットが出てくるものに、誰もお金を払う気にはなりません。極めて安いコストで量産できるものはコモディティ(汎用品)となり、そこには経済的な価値が生まれなくなる。これは自然の摂理です。
それでは、私たちはこれから何に対してなら「お金を払いたい」と思えるのか。AIがコモディティ化し、平準化された世界において、新たに価値を持つものとはいったい何なのか――。それを真剣に問い続けることこそ、個人にとっても企業にとっても、最も重要な問いだと思います。
年功型終身雇用を「守ろうとする」ことが逆に人を不幸にする
日本企業の多くは今も「終身雇用モデル」が前提となっています。しかし、経済的にも生産性の観点からも、年功型の終身雇用はすでに意味をなさなくなっています。それではなぜ、時代に合わない制度が生き長らえるのか。問題は、一度できた制度には「自己強化」の性質があるということです。制度はある時点では「特定の状況」を前提に作られますが、その状況が少しずつ変わっても、それに合わせて形を微調整し、抵抗的に生き続けようとするものなのです。
AIが進化し、ホワイトカラーの仕事をかなりの割合で置き換える時代に、日本の伝統的な終身雇用モデルを守り続けるのが不可能なのは明らかです。仮に守ろうとしても、結局は達成できず、結果的には働く人自身や、社会自体に不幸を招くことになるでしょう。例えば、タクシー業界を守るために規制緩和ができず、ライドシェアの導入が進まずに、社会の利便性を向上できないのと同じ構図です。
人間の性質として、長く制度の中で生きてきた人ほど制度へのアタッチメント(愛着)が強く、変化を恐れる傾向があります。そして、この傾向は経営者に特に強く見られます。
しかし、人類の歴史を振り返ってみれば、変化に抵抗してうまくいったケースは一つもありません。賢明な経営者や個人は変化を取り込み、「変化にどう適応すれば飯が食えるか」「どういう仕事であれば人はお金を払ってくれるか」を真剣に考えるものです。
私が最も心配しているのは、JTC(日本の伝統的大企業)です。大きな組織の仕組みの中で飯を食ってきた人ほど、自分の仕事に「誰がお金を出しているのか」を考えなくなる。特に中間管理職になるとその感覚が薄れ、危険な状態に陥ります。むしろ、現場で働く中小企業のパートさんのほうが、お客さんと直接対峙して物を売るぶん、対価の感覚をずっとリアルに持っています。
幕末の時代、ただ『論語』を読んでいれば俸給をもらえていた武士が、明治維新が起こりある日突然「もう払えない」と言われ、さて、どうやって金を稼ぐかという問題に直面しましたが、いまJTCの社員が直面しようとしているのは、まさにそんな状況と言えるかもしれません。
私は日本の経営者にはっきりと言っておきたいことがあります。それは、社員に突然「これからは自分で考えてほしい」「リスキリングプログラムを用意した」と言い出すのは、あまりに無責任だということです。
経営者がやるべきことは明確です。「この会社はこれからこういう領域で付加価値を作る」「ハードウェアエンジニアはソフトウェア側に移ってほしい」「欲しいのはこういうスキルを持った社員だ」と、はっきりと方針を示すことです。それを言わないまま「雇用第一」を掲げ、ぼんやりとした将来像だけ示すような経営者は無責任だと思っています。
DX隆盛の頃、「とりあえずDXと言っておけばいい」という空気がありましたが、AIトランスフォーメーション(AX)で同じことをやってはいけません。たとえば「AIで資料作成を効率化しましょう」というのは、会社にとって生産性の向上を意味しません。仮に3時間かかっていた作業が30分でできるようになったとしても、余った2時間半という時間をこれまで同じように使っていたら、会社は何も変わっていない。
コーポレート・トランスフォーメーション(CX)として本当に意味があるのは、例えば4分の1の工数になったなら人員も4分の1に減らして、その人材を現場の物流など別の価値創出に移す、といった判断です。
最近、黒字のうちに早めにリストラして人員を転換する企業が増えていますが、実はこれは「先の時代を見据え、人を大事にしている」ことの表れです。会社に体力があるうちに割増退職金や就業支援などを伴い社員に転職を促すほうが、当人の今後のキャリアにとっても有利に働きます。守れもしない暗黙の約束を続けて、お金がなくなってから「次の仕事を探してくれ」と言うほうが、よっぽど残酷だと私は思います。
身体性を持つ仕事はAIに置き換わらない
それでは、AIに置き換わらない仕事とは何でしょうか。私は「身体性を伴う仕事」だと見ています。医師やパイロットが典型ですが、一次情報を取りに行く記者の仕事も同じです。世の中に既に出回っている情報をまとめて記事を書く「こたつ記事」や記者クラブの代表発表は、誰でもAIで書けてしまう。しかし、実際に現場に足を運び、生きた一次情報を取ってくる行為には身体性があり、どんな時代にも必ず価値が存在します。
実際にいま、世界中でホワイトカラーよりもブルーカラーの求人倍率が高くなっています。日本は絶望的な人手不足で、介護・看護・土木など、やりたがる人が少なく慢性的に人手が不足している領域では、賃金は上がる方向にしかなりません。フィジカルAIやロボティクスが進化し、価値の低い身体作業が置き換えられていくとしても、それは「高付加価値の作業に人間の時間を集中できる」チャンスと言えます。
観光業でいえば、宿泊施設のチェックインはロボットに置き換わっても、季節や天気に合わせた個別提案をするコンシェルジュの仕事は人間の側に残るでしょう。単純で価値の低い作業はAIやロボットに置き換え、高付加価値な領域において人間の新たな仕事を作り続ける努力をするほうが合理的です。
日本企業には、「自社の技術や熟練知があれば勝てる」という思い込みが根強くあります。しかし「熟練知」とされているものの半分以上は、実は熟練知でも何でもありません。組織に沈殿したノウハウはあっても、そのノウハウで作り出したものに、本当にお客さんがお金を払う気があるかどうか、という問いを立てられない企業が多すぎる。
例えば、熱波に見舞われているヨーロッパでいま、高性能な日本製エアコンではなく、中国製エアコンがよく売れているのは、景観条例によって壁に穴を開けられない古い家でも、窓からホースを出すだけで使えるからです。これはノウハウの問題ではなく、「どういう価値を提供するか」という戦略の問題です。「いいもの」の定義はお客さんが決めるのです。
ビジネスの世界に、観念的な「いいもの」は存在しません。この夏に使えるものを8月中にデリバリーできるかどうかが勝負であって、「うちのものを使えばきっとわかってもらえる」は、もはや通用しません。
何が付加価値を生むのかを突き詰め、付加価値を生まないものは低コストの方法に置き換える。例えば単純なデスクワークなら生成AIに、エッセンシャルワーカー系の単純作業ならフィジカルAIに置き換える。これが経営の合理的な判断です。この判断は現場にはできませんから、経営者がやらなければなりません。
2040年を「残酷な未来」にしないために
最後に、個人がどうAIと向き合うべきか、という心構えをお伝えできればと思います。AIをどう使うべきか——その答えは一つで、AIを「部下」として使いこなすことです。
例えばAIに勉強を頼りすぎると、自分自身が賢くなることをサボるようになります。自らが付加価値を生むためには、AIを「ボスの立ち位置」から使いこなさなければならない。「AIを使ってどう企業価値を、社会の価値を高めるか」という観点を持つことが求められます。AIは血も涙もない機械です。それを制御して人々の福祉のために使いこなせるかは、使う側の英知にかかっています。
リベラルアーツも重要です。AIが情報収集や処理を代替してくれる分、人間には「考える時間」が生まれます。その時間を使って何を考えるか。一次情報を探しに行き、先人が悩み続けてきた人間の苦悩や業を自分の思考に引用できるような、「身体化された知」を磨くことです。
英国のエリートと話していると、シェイクスピアのたとえ話で本質をついてくることが多く、つい感心することがあります。彼らがシェイクスピアの知識を身体化できているのは、子どもの頃からシェイクスピア作品の演劇をやらされているからです。ただ読んで知っているのではなく、演じて体に入れている。座学と実体験の掛け算こそが、本質的なレイヤーでものを考える力を育てるのです。
2040年、AIネイティブ世代が社会の主役になる頃、日本社会に何が起きているか。明治維新の流れになぞらえるなら、2040年は「西南戦争」のころではないかと思います。つまり、維新の大変革が一段落し、旧体制の最後の抵抗が起きた時期です。大リストラが行われ、大トランスフォーメーションが進んでいる——そんな時期に差し掛かっているはずです。
55歳以上の方は逃げ切れるかもしれない。しかし30代・40代の方は「今の会社を勤め上げて年金をもらう」という前提を捨てたほうがいい。これは誰のせいでもなく、“新たな産業革命”がもたらすものです。例えばテレビを見る時間は減り、その代わりNetflixやDAZNには毎月お金を払う。時代の変化に伴い、そうした選択を取るようになったのは、他ならぬ私たち自身です。
日本は過去、明治維新のような大変革を柔軟にやり遂げてきた歴史があります。腹をくくって「この際変わるしかない」と思えば、現実を変えることができる。2030年代前半までに日本がその“モード”に入ってくれることを、私は願っています。
AIを部下として使いこなす能力を磨き、リベラルアーツや実践知を身体化して、自分の付加価値を自分で作り出せる個人と企業だけが、2040年を「残酷な未来」ではなく、豊かな未来として生き抜くことができるのです。