7月中旬のある日の早朝、訳あって、仙台を訪ねるため、私は東北新幹線の車中にいた。はやぶさ号だと、東京駅から仙台まで90分で着く。あっという間だ。この日は三連休の初日ということもあり、車内は混んでいた。私は二人がけの窓側の席だったのだが、隣には若い女性が座り、通路をはさんで反対側に連れの男性が座っていた。もし私がこの席を取らなければ、彼女は連れの男性と並んで座れたかもしれないと思うと居心地が悪かった。しかし、仙台より先も満車と車内放送があったので、私が席を換わったとて、仙台までの短い時間に過ぎない。それでも良いのか、それはかえって迷惑なのかと考えていると、何だか余計に気まずくなり、私は話しかけることを完全に拒絶した体で、ずっと外を眺めていた。
人との距離に遠慮が少なかった時代は、電車の中でも、待ち時間でも平気で話しかけてくる人がいた。隣の女性に換わった方が良いかと聞くことくらい何てことなかった。1981年生まれの私が幼い頃はまだそんな時代だった。だが、気づけばそんな時代は終わっていた。スマホという語りかける相手が出来た今となっては、車内において人に話しかけることはまずない。
そこかしこに死者がいた時代
水木しげるに「カンデレ」という作品がある。これは人と人との距離が近かった時代の物語である。「カンデレ」とは友人関係、いや、もっと強い信頼関係に結ばれた者を指す言葉のようだ。物語は太平洋戦争中、南方のグリーン島での戦闘、そしてその島からの脱出の顛末を描いている。脱出し、生き残った面々は、脱出した日を記念し、年に一度会うことにしていた。「ある年の会合の帰りだった。新幹線の中でいろんな話から、あのグリーン島で別れた津田のその後を知っている奇妙な文化人類学者がいて驚いた……」という語りとともに、物語はクライマックスへと進む。生き残った面々は、この文化人類学者から、身代わりのような形で島に残った同じ部隊にいた津田のおかげで、自分たちの命が救われたことを知る。津田は終戦直前に自決したという。一人の男性が言う。「戦争に行った者はすべて『カンデレ』です」と。そして、別の男性が涙を流しながら、「我々はこうして生きていても戦死した者と頭の中で常に同居しています おそらく死ぬまででしょう」と話すのだ。
勝手な推測だが、この作品の舞台は高度経済成長期の後半、戦後まだ30年もたたない時代ではなかったか。個々人の経済事情も一息つき、戦友たちと新幹線を使って旅行が出来るようになったのだ。かつてそこかしこに戦争の記憶があり、戦争中の彼我との再会の場面があった。戦場で出会い死んだ者も、生き残って帰って来た者も、どこの誰かは分からない、ということはない。脳裏に焼き付いた名前と顔が瞬時に思い浮かぶ関係だった。特に、戦死した仲間のことは忘れがたかった。
「カンデレ』について、水木はグリーン島の生き残りから聞いた話だと書いているが、激戦地・ニューギニアで戦った水木にとって、「我々はこうして生きていても戦死した者と頭の中で常に同居しています おそらく死ぬまででしょう」という心境は、容易に想像できたのではないか。そういういわば、死者との邂逅が日常としてあり得たのだ。まだ死者がそこかしこにいたのだ。そういうことが不思議ではなかった時代はいつ終わったのか、と思った。人との距離に遠慮がなかった時代の終わりとともに失われたのだろうか。
お盆に祖先をおんぶして帰る祖父
今年の5月に、拙著『戦中派』(2025年10月刊行、講談社現代新書)の読書会を行って以来、私は死者の存在について考えている。この本では、戦中派が死者を抱えながら戦後社会をどう生きたかについて書いた。読書会で「死者の存在を感じることはありますか」と聞いたのだが、どういう場面で死者の存在を感じるかが知りたかったからで、それに対して「ない」という答えが返ってきたのは、実はかなり意外だった。読書会には、20代の若者が10人近く参加してくれていたが、一様に「ない」という答えに対して同意しているように見えた。ただ、一人の女性が「私は死者の存在を感じている」と言ったのが、今度はこちらが意外となり、心に残った。