敷居の高い店よりも、親しみやすい料理人がいる店を
「もう45年経ったのかと。毎年のようにかごしま近代文学館が、寄贈した邦子の遺品をもとにいろんな企画展示をしてくださったり、姉の作品が映画や舞台、テレビで、そして昨年は是枝裕和監督がNetflixで『阿修羅のごとく』をリメイクされたり、本当によくここまで続いたなと思います。これだけ様々な方がイベントなどで作品に関して声をかけてくださって、それが45年も続くというのは、他の作家さんのことはよく知らないですが、あまり見ないなと思いますね。『邦子さんやるなぁ』という気持ちです」
姉・邦子とは年齢が9歳違う。子どもの頃は、どんな姉妹関係だったのだろうか?
「姉とはあまり、一緒に遊んだ記憶はありません。ただとても勘のいい人で、要所要所で私のことを気にかけて、面倒を見てくれました。姉妹仲という意味では、すぐ上の迪子の方が距離が近かったです。私が生まれた時からすごく可愛がってくれて、彼女が高校生くらいまでは、自分の友だちよりも、迪子の友だちと遊ぶことの方が多かったくらい、ずっと一緒にいました。迪子は何でもこつこつやる勉強家なんですが、私は勉強ができなくて、それでも全然平気だったのは邦子のアドバイスがあったから。うちは三姉妹とも実践女子(註:当時の実践女子専門学校)に入ったんですが、邦子は私が勉強で苦労すると思ったんでしょうね。高校受験ではなく、中学から入った方がいいと両親に直談判し、私は面接試験を受け中学から実践女子に通いました」
ちなみに邦子と迪子の姉妹は、勝ち気なうえ性格も違っていたので、仲は悪くないものの、それほど距離感の近い姉妹でもなかったらしい。中学から進学し実践女子短大に進んだ和子は、やがて就職の時期を迎えた。
「短大って卒業すると結婚する人が多いから、就職先があまりなかったんです。すると邦子が、『私、あなたの就職先探すから』と言って、阿佐ヶ谷にあった美容室を見つけてきてくれました。言われるまま美容室に行くと、美容に関する本を3冊渡されて、その内容を原稿用紙にまとめて書いてきて下さいと言われたんです。私が書いていったら、その文章がどういう経緯か、後に朝日新聞の夕刊に掲載されました。行き違いか、その文章を姉が書いたものと思ったらしいのね。でも新聞に載ったということは、私もその時は結構ましな文章を書いていたんでしょうね」
ただ、邦子の紹介で勤め始めた美容室だったが、自分に合わないと感じるようになったそうだ。
「それで、姉に『やめてもいい?』って相談したんです。すると『いつやめてもいいわよ。私の方からいろいろ言ったから、これからもあなたの就職先は私が探すわ。でも私の時は、誰の世話にもならないで、自分のことは自分でやったけれど』と言われて。その時、ピンときましたね。今度は姉の世話にならず、自分で就職先を探すべきだって。それで新聞の求人欄から自分が受けられそうなところを探して、日本橋に本社があった損保会社に就職しました」
彼女はこの会社で15年間働いた。その間、映画雑誌の編集者をしていた邦子とは、よく食事に行ったという。
「姉に連れられてお昼ご飯をごちそうになると、出てきた料理を姉が『これなら自分で作れるわね。今度作って』と言うんです。それで私が忘れたころに、『あれ、作ってみた?』と聞いてくるから、本当は作っていないけれど、『作ったわよ』って答えて(笑)。姉は簡単にできそうな家庭料理に出くわすと、周りの人に作らせたがるし、自分でも作ってみるのね。とにかくおいしいものが好きで、それも高級料理ではなく、値段も含めて『見つけたな』という “お値打ちもの”の家庭料理が好きでした。敷居の高い店よりも、親しみやすい料理人がいる店を好みましたね」
共同経営した赤坂の小料理屋『ままや』の思い出
和子は損保会社を辞めた後、1975年4月から五反田で喫茶店を始めた。名前は『水屋』といい、邦子が命名した。ところが、初めての飲食店経営に慣れてきたころ、同じ年の10月に邦子が乳がんを発病する。