2月28日のイラン戦争開始後3か月がたった現在、イランの隣国であるイラクこそが、この戦禍の最大の被害者となったといってもよいだろう。筆者がバグダードに滞在していた2022年から24年にかけては相対的な安定を保ってきたイラクは、改めて国家存亡の危機に直面している。本稿では、イラン戦争の長期化が懸念される中、イラクの現在を深堀りすることによって、その近未来を見通してみたい。
政治的な影響力を持たないビジネスマンの新首相
5月某日、旧知のクルド人政治家が東京に立ち寄った。米国で開催されたシンクタンクのイラク・セミナーに参加し、クルディスタン(イラクの自治地域)の主都エルビルに帰る前に筆者と旧交を温めたかったからだという。ここでは、H氏と呼ぶことにしよう。
今回のイラン戦争の最大の被害を受けているのが、イラクであり、クルディスタンなのではないかと問いかけると、H氏は「もはやイラクは国家の体をなしていない。イラク政府を牛耳っているのはイラクの民兵組織であり、その背後にはイランの革命防衛隊がいる」と言い切った。H氏は「スーダーニー政権の後継として、ようやくこの5月14日に成立したアリ・ザイディー(Ali al-Zaidi)政権は、イランとアメリカの妥協の産物に過ぎない」とまくしたてる。
実際、昨年11月11日に行われた総選挙で勝利したのはムハンマド・スーダーニー首相率いる政党「復興開発連合」だったにもかかわらず、スーダーニー氏は後継候補にならなかった。バグダードの政治を支配する「シーア派調整フレームワーク」(SCF=シーア派の有力政治家12人が参加する事実上の権力機構)は当初、ヌーリー・マーリキー元首相を後継候補に選出した。しかし、この選択は米国政府の怒りを買った。「イランにあまりに近い人物」というのがその理由だ。米国は、ドルの現金のイラクへの送金を一時停止するなどの圧力をイラクにかけた。
これを受けてSCFは、ザイディー氏を首相候補として差し替えたのだった。同氏はマーリキー元首相と懇意の人物であり、例えばイラク政府の様々な食料調達事業を手掛けて、その利益配分を通じてのし上がってきた人物である。40歳になったばかりで、自身に政治経験は全くない。つまり、SCFの領袖たちが見つけてきた「手駒」といった様相が色濃い。
日本の読者にわかりやすく説明するならば、イラク戦争(2003年)以降のイラク政治は、昭和時代の自民党の派閥政治によく似ている。イラクでは、国家の重要事は首相が率いる閣議で決まるというより、12人の有力なシーア派の派閥領袖のコンセンサス(12人中8人のコンセンサスが必要と言われる)で決まる。加えて、このあと詳述するように、イラク内政には、民兵組織等を通じて影響力をもつイランと、米国の間で板挟みという構図が大きく左右している。この中で、諸勢力に対して政治的な影響力を持たない新首相が、国家の舵取りを行うことができるのだろうか。
政府がコントロールできない民兵組織
イラク政治において首相の「実権」を左右するのは、内務省・国防省・情報機関といった治安中枢の掌握にほかならない。しかし、ザイディー新政権では内務・国防といった治安閣僚ポストが未決定のままである。これは単なる事務手続きの遅れではない。「国家の武力を誰が握るか」という根本問題と直結した、治安機構の閣僚ポストをめぐる綱引きが水面下で続いているからだ。