<span>コレクティブから読む――「ケアとサッカー」を変える「流動性」「主体性」の哲学</span>

特集|社会|ライフ

Vol. 1

コレクティブから読む――「ケアとサッカー」を変える「流動性」「主体性」の哲学

2026年6月11日

30年前からは考えられないほど、日本サッカーは発展した。ブラジル、ドイツ、スペイン……日本代表は世界の強豪国と渡り合い、時には勝利してしまう。ここまでに至るには長い歴史があったが、大きな革新をもたらしたものは何だったのか。サッカーの「文脈」から離れて「ケア」の視点から考察すると精神医療との意外なる共通性があった。昨年『ケアと編集』を上梓した著者が「ケア」を手掛かりにサッカーを読み解く画期的論考。

サッカーは「関係性重視」である

 蓮實重彦先生も苛立つほどの「ケア」ブームである(『群像』4月号)。たしかにケアはマジックワードで、この言葉ひとつであらゆることが説明できるからブームになりやすい(し、消えやすい)。とはいえ個人的感覚からすれば、雌伏数十年である。ようやくやってきたブームだし、ちょうどいま4年ごとに開かれるサッカーのワールドカップが始まるというタイミングであるからして、これら時節ものにダブルで乗ってみたい。

 言うまでもなく、サッカーは勝負事の要素が強いスポーツである。さらに国威を懸けて戦うワールドカップとなればいつも以上に「戦い」が強調されるので、ケアという優しい言葉は不似合いのように見える。一方でケアは、他者に依存しない「自立」の論理に対して、他者にひらかれた「関係性」の論理をベースにしていると言われる。

 私はこの“関係性重視”こそがサッカーのキモだと思っているが、「関係性」という言葉もまた、「ケア」に劣らずマジックワードである。なんでも言えてしまう。なのでここでは、サッカーの場面にたとえて具体的に書いてみたい。

 ドリブルのうまい選手Aがいる。そこに対峙するのは守備のうまい選手B。観客は1対1の戦いだと固唾を飲んでいると、Aの脇に攻撃側の選手Cがするすると走り寄ってくる。ドリブルのうまいAは、近づいてくるCにパスを出す素振りを一瞬見せると、対峙する守備者Bの体重は片足に乗る。その瞬間Aは、Bの体重の乗っていない側へボールを持ち出して、はい、勝負あった。

 ここでのポイントは、CはAの側に走り寄ったが、具体的に何かのプレーをしたわけではないことだ。ボールにタッチさえしていない。「その位置でAからパスを受け得る」という可能性をその局面に与えただけである。それぞれのプレーヤーの頭の中にしかない「可能性」という抽象物は、現実のピッチで実際に守備者のバランスを崩し、そのバランスの崩れを見たAの素早い抜け出しを支えたのである。

 私は小学校高学年からそれまでの野球にかえて、サッカーをやりはじめた。東京・練馬区の光が丘は当時グラントハイツと呼ばれた米軍の居留地で、見渡す限り芝生が広がっていた。もちろんそこに入ることは禁止されていたのだが、芝生の上でサッカーをするのがこんなに楽しいとは思わなかった。トラップすればボールはスッと足下に収まるし、コーナーキックはちゃんと空中に上がった。おまけに野球では基礎練習ばかりで試合をやる頃には日が暮れたが、サッカーはいきなりミニゲームだ。楽しい……。

 

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