AIチャットの指示で救急車を呼び一命を取り留めた
家に帰ると家人が畳に横たわっていた。10分ほど私が外出した間に気分が悪くなったらしい。1週間ほど前から不調を訴えていたが、今回は少し重そうだ。かかりつけ医の受診を勧めると、家人は起き上がろうとしたものの、辛そうに唸るだけだった。救急車を呼ぶべきか。だが、安静にすれば、これまで通り回復するかもしれない。
救急車を呼ぶ前に相談できる窓口があったことを思い出し、パソコンで電話番号を調べたところ、「#7119」の番号とともに「ネットでガイド 東京版救急受診ガイド」なるサービスを見つけた。AIを活用したチャット形式で症状を入力すると、最短1分で緊急度を確認できるとのこと。
家人に聞くと「胸痛、冷や汗」があるという。持病も入力した方がいいと思い、「高血圧の既往あり」と加えて送信。まもなく、〈レッドマークを提示します。救急車を呼んでください〉とのメッセージと5桁の数字が表示された。胸の鼓動が早まったが、AIの評価に全幅の信頼を置くこともできず、119番の代わりに、画面に表示されていた救急相談センターに電話した。5桁の数字を伝えると、担当者はすぐに入力内容を把握できたらしく、「こちらから救急車を呼んだので、後は隊員とやりとりしてください」という。私はようやく事態の深刻さを理解した。
10分ほどで救急隊員が到着し、家人は近くの病院へ運ばれた。診断は心筋梗塞。搬送から2時間後にはステント留置術が行われ、2週間後に退院し、今は元気に過ごしている。AIが家人の救命に役立ったのは間違いない。
「東京版救急受診ガイド」は、2026年3月2日にリニューアルされたばかりだった。私が利用したのは3月10日。もしこのサービスにたどり着かず、もうしばらく様子を見ていたらと考えると、ぞっとする。
意識がない、呼吸をしていない、大量に出血している。そんな状況なら誰もが迷わず119番に電話する。しかし実際の体調不良は、いつも分かりやすい形で現れるわけではない。家族も本人も迷う。その数分が、時に命を左右する。
「救急車を呼ぶか病院へ行くか判断に迷うケースでも確実に重症者を見逃さない。それがこのシステムを開発した理由の一つです」と語るのは、東京消防庁救急部救急医務課の山口龍一氏。
「東京版救急受診ガイド」は、症状を入力すると、緊急度を赤、橙(だいだい)、黄、緑、白の色の違いで示す。赤であれば「すぐに救急車を呼ぶ」段階であり、橙であれば「速やかな受診が必要」となる。
システムはより危険側に立って判断するよう設計されているという。たとえば本人は熱中症だと思っていても、頭痛や吐き気、手足のしびれといった症状があれば、脳疾患の可能性が排除できない。そこで複数の症状を比較し、より緊急度の高い判定を優先する。
判定が困難な場合や、利用者が不安を感じる場合には、救急相談センターと通話できる。そこでは看護師が相談に乗り、常駐する医師の助言も必要に応じて得られる。AIだけで完結させるのではなく、人間の専門職が最終的な受け皿として控えている点に、この仕組みの安心感がある。
「東京都内では毎年数十万件の救急相談センターへの入電があります(2025年は約50万件)。そこから抽出した症例を元に約4万件のシナリオを作成し、東京都医師会による監修結果を学習データとして、大手ITベンダーとともにこのAIチャットボットを開発しました」(山口氏)
限られた救急車を本当に必要な人に使ってもらうため、緊急性の低い症状について適切な受診先を案内することもこのシステムには期待されている。
「救急車を呼ぶべきか」は救急医療が抱える課題の初歩に過ぎない
AIは今、医療の領域にどんな影響を及ぼしているのか。東京財団主席研究員で、医療AIや医療情報、医療政策に詳しい藤田卓(たか)仙(のり)氏は、いくつかの医療AIを実際に自分で利用して「十分な手応えを感じた」という。
「かつて医療AIの主な活躍の場は画像診断でした。X線、CT、MRIなどの画像から病変を見つける技術は、早くから放射線科などで実用化が進んでいました。ところが生成AIの登場によって、医療AIの役割は大きく広がりました。画像だけでなく、患者の訴えや医学論文などの膨大な言語情報を読み解き、要約し、整理して人間に分かりやすく伝えることができるようになったからです」
それでは、医療AIは実際の現場でどのように使われ始めているのか。冒頭で触れた、救急車を呼ぶかどうかの迷いは、救急医療が抱える課題の初歩に過ぎない。患者の状態を迅速に把握し、搬送先の病院を探して、必要な情報を正確に伝える。その一つ一つが命を左右するにもかかわらず、現場では今も電話と口頭説明、紙への記録作業に多くを頼っている。救急隊員は揺れる車内や雨の現場で患者の情報を集め、病院に1軒ずつ連絡し、断られればまた同じ説明を繰り返さなければならない。こうした一連の作業を電子化し、AIとデジタル技術で変えようとしている企業がTXP Medicalである。
同社代表取締役の園生智弘氏が語る。
「救急現場は、机の前で落ち着いて情報を入力できる環境ではありません。雨の中、屋外で、あるいは揺れる救急車の中で、患者の状態を観察しながら情報を記録しなければならないことがある。私たちが提供している『NSER mobile』には、写真撮影からの文字の読み取り、画像送信、音声入力など、現場で使うことを前提にした機能が組み込まれています。たとえば『65歳男性、起床時からの胸痛で救急要請。血圧は180/100、脈拍は118回で、冷や汗があります』などと話しかけるだけで、AIが文脈を理解し、必要な項目に分けて構造化された情報として入力できます」
一度入力した情報は病院側に瞬時に共有されるから、救急隊員は同じ説明を別の病院に一々繰り返さずに済む。病院側は、患部の状態や事故現場の様子など、言葉では伝わりにくい情報を画像で確認できるので、受け入れの可否を判断しやすく、到着前の準備にも活かせる。
現役の救急医でもある園生氏は、救急医療の本質的な課題は「ミスマッチ」にあると指摘する。