独裁体制からの民主化は困難
― 民主主義から独裁体制へと移行する「民主主義の後退」の方が、その逆のパターンよりも起こりやすいのでしょうか。
ディルサス 独裁者が失脚しても、たいていは別の独裁者に取って代わられることが分かっています。それが最もあり得るシナリオなんです。
例えばハーフェズ・アサドを見てみましょう。シリアはアサドに統治されていましたし、その前は彼の父親である別のアサドが統治していました。父親が亡くなった際、首都ダマスカスのエリート層が集まり、今後どうするかを検討しました。もちろん、彼らにとって民主主義など関心の対象外です。なぜなら、汚職などを通じて富や権力を得られるのは、まさにその独裁体制のおかげだからです。ですから、彼らが民主主義を選ぶはずもなく、結局は別のアサドを後継者に選んだわけです。彼らがそうしたのは、息子の若いアサドがシリアを前進させ、素晴らしい未来をもたらすと期待したからではありません。むしろ、彼が後継者なら独裁体制そのものが崩壊するリスクが低いと考えたからです。
独裁者の後には独裁者が続くのが一般的ですが、実は常にそうなるわけではありません。独裁体制というのは、いわばサイコロを振るようなもの。何が起こってもおかしくないのです。体制の中心にいた人物がいなくなると、すべてが崩壊してしまいます。体制のすべてが、そのたった一人の人物を中心に構築されているからです。
― 民主化には、市民により多くの努力が必要だとお考えですか?
ディルサス 民主化は困難です。例えばクーデターなら、400人ほど集まれば実行できるかもしれません。首都にあるいくつかの重要拠点――国営放送局、空港、あるいは議会など――を制圧すればいいわけですから。つまり、クーデターのような非民主的な行為は、ごく少人数でも実行可能です。
しかし、民主化を実現しようとすれば、通常は国民の大多数を巻き込む必要があります。街頭に出て、ストライキを行い、政府に圧力をかける。それは非常に困難なことですし、当然ながら、個人にとって大きな犠牲を伴うものでもあります。例えば北朝鮮のような国では、街頭に出ることなどできません。平壌で抗議行動を起こせば、文字通り「消されて」しまうでしょう。ですから、こうした体制下で必要となるのは、何らかの理由で政府が弱体化したタイミングで、国民による圧力を最大化することです。指導者が失脚したり、窮地に陥ったりした瞬間こそがその時なのですが、それにはリスクが伴いますし、多くの人手も必要になります。だからこそ、非常に難しいのです。
― なぜ独裁者は、まさにその瞬間が訪れる直前まで、自分たちが失脚しようとしていることに気づかないのでしょうか?
ディルサス それは非常に興味深い質問ですね。私自身もよく自問することです。彼らは「自分は権力の座にとどまり続けるのだ」と信じ込まざるを得ないからではないでしょうか。彼らの生活ぶりを見てみると――実際、どの独裁者もそうですが――信じがたいような人生を送っています。本や映画でそんな光景を目にしたら、「いや、ありえないだろう」「そんなこと、現実には起こらないはずだ」と思うようなことばかりです。しかし、彼らにとっては、それが現実として起きているわけです。こうした独裁者の中には、貧しい環境で育ったり、農民出身だったりする者もいます。彼らは幾多の政権交代をくぐり抜け、ある日突然、巨大な宮殿の玉座に座り、軍を指揮し、戦争や平和、さらには人々の生死さえも決定する立場に就くのです。それはまさに非現実的な体験と言えるでしょう。
また、彼らが権力を失う局面を迎える頃には、すでに数々の危機を乗り越えてきているものです。つまり、彼らはこれまでにも失脚や暗殺の危機に瀕した経験があるわけです。そのため、実際に暗殺されたり、クーデターで失脚したりするその瞬間が訪れても、彼らは事態を直視できません。なぜなら、現実を直視することは、権力をさらに早く手放すことを意味するからです。彼らは常に強さを誇示し、自信に満ちた態度を示さなければなりません。「自分は神の意志によってこの地位にあるのだ」と主張し、そう振る舞い続ける必要がある。彼らがそう信じ込むことには理屈があります。なぜなら彼らは、私たち一般人なら夢や悪夢の中でさえ想像もしないような、常軌を逸した数々の行いを実際に成し遂げてきたのですから。