アメリカ式の映画製作技法に挑戦した日本映画草創期の功労者
谷崎潤一郎は、常に新しいメディアや技術に対して強い関心を持っていた作家でした。例えば1910年代には、当時の日本で本格的に普及し話題になっていた活動写真(映画)に夢中になり、1920年に東洋汽船の資本で設立された映画製作会社「大正活映(大活)」の文芸顧問に就任。ハリウッド帰りの監督トーマス栗原らとともに自ら映画製作に乗り出しました。谷崎自身のオリジナルシナリオによる同社設立第1作にあたる『アマチュア倶楽部』(1920年)は、夏の湘南の海を舞台としたアメリカ風のドタバタ喜劇で、クロスカッティングやクロースアップを用いたり、絵コンテを使用したりと、アメリカの映画製作の技法をいち早く取り入れた画期的な作品でした。谷崎はこの作品で、当時ご執心だったせい子(谷崎の最初の妻・千代の妹で、『痴人の愛』(1925年)のナオミのモデル)を「葉山三千子」という芸名でデビューさせた他、文学青年として谷崎の許を訪ねてきた高橋英一のスター性を見抜き、「岡田時彦」と名付けて同じくデビューさせました。
葉山三千子は女優としては活躍することはできませんでしたが、岡田時彦は肺結核により30歳の若さで亡くなるまでに溝口健二監督の『紙人形春の囁き』『日本橋』に出演、小津安二郎監督とも意気投合して『その夜の妻』『淑女と髯』『東京の合唱』などに名を連ね、現在も日本のサイレント映画時代の大スターとして知られています。
残念ながら、谷崎が製作に携わった4本の映画作品は全て関東大震災などで焼失し、現存していません。そのため現代では影が薄くなってしまっているのが残念ですが、日本での映画製作体制が確立する以前の技術的試みにしても、あの岡田時彦を銀幕に送り込んだことにしても、谷崎の日本映画界への貢献は大きいと思います。
SFやサイバーパンク小説を書いていたかも
また、谷崎の活動写真への愛着は、本業である文学創作にも大きな影響を及ぼしました。例えば『青塚氏の話』(1926年)は映画監督の中田が遺した手記を通じて、人気女優の妻・由良子に狂気的な執着を抱く青塚氏の姿を描いた短編小説です。青塚氏は、由良子が出演する映画のフィルムを全て執拗に観察して彼女の肉体を分析し、全国各地の遊郭などを訪ね回って「由良子型」とも言える肉体の部位を有する女性たちのデータを収集する。そしてそのデータをもとに市販の材料によって「女優・由良子」の精巧なゴム人形を創り上げます。生身の人間以上に理想化された「究極の虚像」と、それを崇拝する青塚氏の狂気を突きつけられた中田は精神を崩壊させ死に至ります。本作は、映像メディアの持つ魔力を巧みに物語へ取り入れた、谷崎らしい先見性に満ちた作品と言えるでしょう。
その後、谷崎は関東大震災後の関西移住を経て映画の世界からは離れていくのですが、その好奇心は晩年になっても衰えることがありませんでした。コンピューターが登場し、「サイバネティックス」(生体と機械における通信と制御を統一的に扱うための理論、1948年にノーバート・ウィーナーが提唱)が話題になると興味津々で、人間と機械の共生や融合といったテーマへの興味を創作ノートなどに書き綴りました。老境にあって、その関心を直接的に作品に落とし込むところまではいきませんでしたが、もし気力・体力ともに充実していたらSFやサイバーパンク小説を書いたかもしれません。
急速に発展したAIが人間の思考や判断に影響を及ぼし、あらゆる社会活動のあり方までも変えつつある現代に谷崎が生きていたらどのような反応を示し、どんな作品を生み出したでしょうか。想像も及びませんが、大いに創作意欲を刺激されたことは間違いないと思います。