特集|カルチャー

Vol. 18

【谷崎潤一郎生誕140年】自主規制と炎上のSNS時代に読み直す『細雪』 なぜ戦前から戦後まで書き続けられたのか

2026年7月25日


<span>【谷崎潤一郎生誕140年】自主規制と炎上のSNS時代に読み直す『細雪』 なぜ戦前から戦後まで書き続けられたのか</span>

今年7月24日で生誕140年となる谷崎潤一郎。20代で文壇の寵児としてデビューしてから70代に至るまで、厳しい言論統制下の戦中も含めひたすら書きたいものを書き続けられたのはなぜか。谷崎の代表作である『細雪』を題材に谷崎研究の大家である早稲田大学名誉教授・千葉俊二氏が解説する。

発表の当てがなくても書き続け、粘り勝ち

 『細雪』は第二次世界大戦ただなかの1943年、『中央公論』1月号に連載第1回が掲載されました。当時、同誌の編集長だった畑中繁雄の『覚書昭和出版弾圧小史』(1965年)によれば、前年の8月14日にいよいよ連載が決まったとき、谷崎は「ぼくが書いても大丈夫かね」と念を押したそうです。

 というのも、当時は内閣情報局の検閲が厳しく、2年前には「都新聞」に連載されていた徳田秋声の『縮図』が連載中止に追い込まれました。『縮図』は秋声が当時、一緒になっていた女性の流転の半生を描こうとしたもので「時局に合わない」と情報局から干渉を受け、「妥協して腑ぬけの作品とするより、潔く筆を絶つ方がましだ」との作家自身の判断で未完のままに中絶となったのです。

 谷崎も当然、こうした時代の状況を知っていたはずですが、結局、優雅な近代日本(特に上方)の伝統文化と美と日常という、まさに「時局に合わない」テーマの『細雪』の連載に踏み切ります。隔月掲載の予定で、3月号に第2回が掲載されましたが、前出の畑中繁雄は当時について「反響の大きかったことは、それだけ軍や情報局の干渉を早めたし、直接検閲にひっかける箇所がなかっただけに、相手方の言いがかりはそれだけ陰険さをました」(『覚書昭和出版弾圧小史』)と証言しています。そして第3回が掲載されるはずの号には、『細雪』を「自粛的立場から今後の掲載を中止」する旨の編集部からの「お断り」が掲げられ、それで連載がストップしてしまいました。

 ただ、作品の発表は禁じられたものの、谷崎は疎開先の熱海の別荘に籠もって発表の当てもない『細雪』の続稿を書き進めました。戦局がいっそう厳しさを増し、本土空襲が行われるようになってからは岡山県の勝山に再疎開。「この戦争はいつか必ず終わって平和が来る。自分が生きているうちか死んだ後かは分からないが、書き続けていれば発表できる時代が必ず来る」という信念を内に秘め、表立って反抗するでも迎合するでもなくひたすら時局から逃れ、身を隠すようにしながら『細雪』の原稿だけは書き続けたのです。

 そして終戦後間もない1945年9月27日付の手紙で、谷崎はさっそく中央公論社社長の嶋中雄作へ宛てて『細雪』の出版について相談を持ちかけ、これが早々に実現します。上巻は1946年6月、中巻は1947年2月に中央公論社から単行本として刊行され、下巻は1947年3月号から翌年10月号まで「婦人公論」に連載されました。

 戦前から執筆され、終戦をまたいで戦後になっても書き続けられてついに完成に至る、そんな文学作品は『細雪』の他にはひとつもありません。しかも戦前に書かれた部分にしても、主人公一家がロシアからの亡命一家に夕食に招かれ、中国をめぐる国際情勢について議論するくだりを例外として、戦後に書き直された箇所がほとんどない。これは奇跡的なことだと言えます。

 もちろん、戦中に書きはじめられたことで退廃的な側面が抑えられ、それまでの変態的な性欲への偏向や過激な描写などがなかったことも『細雪』が生き延びることができた大きな要因ですが、谷崎は決して書きたいことを抑えたのではありません。むしろこの作品によって谷崎文学が戦後にポピュラリティを獲得し、地位盤石な大作家として書き続けることに着実につながったわけで、こうして振り返ってみれば実にうまく時局を乗り切ったものだと思います。谷崎潤一郎というと耽美的な主題や作風が注目を集めがちですが、自己の欲望をいかに貫いたかに目を向けると、このように表現者としてのしたたかな面も浮き彫りとなってくるのです。もっとも、意識的・戦略的に考えていたというよりは、「書き続ける」ことへの情熱と欲求が無意識のうちに谷崎を動かしていたのかもしれません。

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