<span>ミニシアター全盛時代からシネコン席巻の現在まで——是枝裕和監督のキャリアから浮かぶ日本映画「綱渡り」のビジネスモデル</span>

特集|カルチャー

Vol. 1

ミニシアター全盛時代からシネコン席巻の現在まで——是枝裕和監督のキャリアから浮かぶ日本映画「綱渡り」のビジネスモデル

2026年9月20日

「ミニシアターは、映画を通して記憶が蓄積されていく場所」――そう語る是枝裕和監督はこの約30年、日本映画の変遷とともに歩んできた。デビュー作『幻の光』から始まったミニシアターとの縁、中規模配給会社と全国各地のミニシアターとの連携が成り立っていた「幸せな時代」、デジタル化がもたらした上映環境の激変、ずっと一緒に仕事をしてきた配給会社の倒産、結果的に深くなっていったシネコンとの関わり。幾度もの転機を経ながらも作品を発表し続けてきた是枝監督のキャリアとは如何なるものだったのか。それを辿ると、日本映画界が内包している“綱渡り”すぎるビジネスモデルが自ずと浮かび上がってくる。

ミニシアターでの上映から始まった監督としての道のり

 昨年、映画監督デビューから30年を迎えた是枝裕和監督。今年2026年にはカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された『箱の中の羊』が公開され、さらに9月にはベネチア国際映画祭で最新作『ルックバック』が上映、日本でも9月11日より公開される。

 是枝監督は、学生時代にミニシアターで映画を見て育った経験が今の自分を育ててくれたとインタビューでもたびたび口にしている。また、「action4cinema 日本版CNC設立を求める会」の共同代表を務め(CNCは「国立映画映像センター」の意)、コロナ禍に#SaveTheCinema「ミニシアターを救え!」プロジェクトの呼びかけ人として映画館への経済支援を訴えたりと、日本の映画業界の改善や、映画館の存続に対し、積極的に意見を表明してきた。

 今では全国規模のシネコンで一斉公開される機会の多い是枝監督作品だが、初期作品は全国のミニシアターで公開され、その都度熱心なファンを獲得していった。1980年代初頭から始まった日本のミニシアター文化が全盛期を迎えていた1990年代に映画監督としてデビューした是枝監督にとって、ミニシアターとの関係はどのようなものだったのか。

 是枝「僕が最初の映画『幻の光』を作ったのは1995年、当時はたしかにミニシアター全盛期だったわけですが、この映画の公開に関しては、選んだというよりミニシアターでの公開しか選択肢がなかった、と言った方がいいでしょうね。『幻の光』は僕が当時所属していた番組制作会社のテレビマンユニオンで製作したんですが、実は完成するまで作った映画をどこでどう公開するか、興行のことはまったく考えていなかった。とにかく作ってみよう、後のことはまあなんとかなるだろうとずいぶん楽観的に考えていました。

 映画が完成したあと、初めて配給会社を探そうといろんな人に見てもらったんですが、「作品としてはいいと思うけど、興行は難しいと思う」という意見ばかりで、初めてこれはまずいなと思い始めました。1億円近く予算をかけて映画を作ったものの、上映できなければ何も回収できない。どうしようかと焦っていたときに、「力になってくれるかも」とシネカノンの李(鳳宇)さんを紹介してもらったんです。李さんは当時渋谷にミニシアターを作ろうとしていて、そこから『幻の光』がシネ・アミューズのこけら落としの作品に決まった。まさに急展開でした」

 シネ・アミューズは、『パッチギ!』(04)、『フラガール』(06)などの製作で知られる李鳳宇さん率いる映画会社シネカノンと、芸能事務所アミューズが共同で渋谷に設立したミニシアター(2010年閉館)。オープニング作品として1995年12月に公開された『幻の光』は、新人監督のデビュー作ながら12週間のロングランを記録、心配していた製作費の回収も無事に達成した。その後も、是枝監督とミニシアターの縁は続いていく。第2作『ワンダフルライフ』(99)、第3作『DISTANCE(ディスタンス)』(01)はミニシアター文化の中心地ともいえる渋谷のシネマライズ(2016年閉館)で公開され、どちらも単館で封切られた邦画としては異例のロングランヒットを記録した。

「あの頃は映画館のブランド力がしっかりとあって、ここで上映される映画なら絶対に面白いはずだと劇場のセンスを信頼して観にくるお客さんが大勢いた。なかでもシネマライズは洋画を中心に「かっこいい映画を上映するミニシアター」というブランドを確立していたので、是非ここで上映したいと僕が直接劇場に電話してお願いしました。「監督から直接上映を申し込まれたのは初めてだ」と驚かれましたが(笑)」

2016年1月に閉館したシネマライズ(渋谷)。写真は閉館の数日前のもの

2000年代後半から起きた、映画の上映環境をめぐる大きな変化

 海外映画祭で着実に評価を受けながらも、製作・配給の体制としては小規模・中規模な映画作りをしていた是枝監督にとって、地方のミニシアターの巡回上映も大きな支えとなった。

「2000年代までは日本全国にミニシアターがたくさんあり、その豊かなネットワークを使って全国で上映を回していけば、大手の配給会社と組まなくてもなんとか製作費を回収できた。僕の場合、デビューから10年くらいは、毎回東京での上映を終えたあと、東北や北海道へ行き、北陸から関西、最後は福岡までまわっていました。でもその幸せな時代はあっというまに終わってしまった。少なくともビジネスとしてこの形式は通用しなくなったな、と実感していったのが、2000年代後半からでした」

 この時期、映画業界で起きた大きな出来事といえば、急速なデジタル化がある。2000年代から、映画の撮影はフィルムからデジタルカメラへと徐々に切り替わり、それに伴い、映画館での上映形態もフィルム上映からDCP上映へと変わっていった。

「デジタル化によって映画を作るハードルが低くなり、才能ある監督が次々に出てきたのは素晴らしいこと。しかしそのために急激に作品数が増え、劇場は回転率を上げざるを得なくなり、一館でひとつの映画を長く上映することが難しくなってきた。劇場収入が減り、結果的に一本の作品にかけられる予算は削減され、製作規模も上映規模も縮小していく。そして映画館の数はどんどん少なくなっていった。かつてのように、1億円規模の予算で撮った映画を全国の劇場でまわしてなんとか回収するモデルはもう通用しないでしょうね。今は3千万円の予算規模でギリギリ成立している市場だと思います」

 是枝監督自身も、上映環境の変化と共に徐々に製作体制を変えざるを得なくなっていく。

「僕の映画作りに大きな変化が生まれたのは2010年前後。デビュー作をきっかけにずっと一緒に仕事をしてきた配給会社のシネカノンが、『歩いても 歩いても』(08)で組んだあと、2010年に倒産し、結局製作費も回収しきれずに終わってしまった。さらに初期の作品を支えてくれたエンジンフィルムのプロデューサーの安田(匡裕)さんが2009年に急逝され、否応なく作品作りの体制も配給の仕方も変えざるを得なくなりました。

 2011年に映像制作集団「分福」(2014年に株式会社化)を立ち上げ、これからは若い二人の監督たち(西川美和、砂田麻美)をサポートしながら活動していこう、と決めたわけですが、そんなときたまたま福山雅治さんから「一緒に何かやりませんか」と声をかけてもらったんです。福山さんを主人公にした『そして父になる』(13)の構想が生まれ、これ以降、僕の映画の規模はぐっと広がっていきました。中規模配給会社とミニシアターとの連携で成り立っていた体制から、大手の映画会社と組む機会が増え、結果的にシネコンとの関わりは深くなっていった。観客の層もぐっと広がったわけですが、一方でミニシアターの上映は昔のようにはできなくなった。映画を作り続けるためにはそう選択するしかなかった、ともいえますね」

ミニシアターは映画を通して記憶が蓄積されていく場所

 シネコンがメインの封切り館となった今も、ときには自ら劇場主と相談しながら、新作のたびに付き合いのある映画館での上映を続けているという是枝監督。かつて自分が映画を観に通い、そこで映画人として育てられた、という意識だけにとどまらず、ミニシアターはなんとしても守っていくべき場所だと強く語る。

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