車いすテニスはやればやるほど赤字だった
国枝は「オレは最強だ!」という言葉を座右の銘にしてきたことで知られている。メンタルが強く、また試合でも「負けない選手」というイメージが定着しているが、若いうちから何度か引退が頭をよぎることがあったという。最初に引退を考えたのはいつ頃だったのだろうか。
「実は04年のアテネパラリンピック後には引退しようと思っていました。当時は今のようなアスリート雇用(企業が社員として雇用し、競技活動と仕事を両立させる雇用形態)もなかったので、先輩たちは世界を転戦するたびに1週間以上も有休を取りながら、多額の費用を負担しつつ遠征しなければならなかったんです。健常者のプロ選手であればグランドスラムを頂点として億が稼げるスポーツなので、自分の可能性にかけてやる価値はあるとも言えますが、車いすテニスの場合、やればやるほど赤字になってしまう。大学3年生だったので、ちょうど本格的に就職活動が始まる時期でもあったし、辞めて就職しようかと思っていました」
ところが、齋田(悟司)さんと組んだアテネ五輪のダブルスで金メダルを獲得したことが、国枝の人生を変える。帰国の飛行機のなかでテニス選手として働き口があるのでは……と模索し始めたのだ。
「帰国後にはテニス選手として働けないかと企業を訪問したり、説明会を聞きに行ったりしていました。そのなかで、母校の麗澤大学が『ウチで働いたらどうだ』と、アスリート雇用を提案してくれたんです。僕が拠点としていたテニスクラブ(吉田記念テニス研修センター)と自宅と大学のトライアングルが距離的に近く、遠征も出張扱いになる。テニスを続けるのに集中できる環境だと思い、職員として働くことを決断しました」
それでも、その現状だけでは満足できないものがあったのだという。
「収入の面では問題はなかったのですが、大会にコーチやトレーナーを同行させれば、コストは2倍3倍にもなる。しかも30歳で引退したら、仕事上は新入社員程度のスキルしか持たない自分に将来の不安を感じました。その不安を抱えたままでは、テニスにも注力しづらい。06年、世界ランキング1位になったこともあって、その状況を打破するために、『プロ転向』を考え始めました」
判断基準は「後悔しないほう」
引退会見ではスポンサー企業であるユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井正社長をして、「車いすテニスという新しいスポーツジャンルを確立し、産業にした」と言わしめた国枝だが、言い換えれば、それまでの車いすテニスは「プロスポーツ」としては成り立たなかったということでもある。
「前例がないために、プロになる方法がわからなかったんです。そこで、(プロテニスプレイヤーの)錦織圭選手など世界のトップアスリートが所属するIMGに、今後の活動についての資料などを持参し、社長に自らプレゼンテーションを行いました。今振り返っても、23歳でなかなか度胸があったなと自分でも思うのですが、そうしなければ続けられない、行動を起こさなければやめる道しか見えないという、崖っぷちに立たされている気がしていました。そのときに社長に言われたのが、『(1年後に控えた北京パラリンピックで)金メダルを取ってから考えましょう』。北京で取れなかったら、確かにプロになれないと言われても仕方がない。だから社長に、『結果を見てください』と言って、パラリンピックに臨むことになりました」
プロに転向することを、周囲の人たちはどのように受け止めていたのだろう。