<span>セカンドキャリアの分岐点――世界ランク1位で引退・国枝慎吾の「未知」か「既知」かという選択</span>
国枝慎吾さん

ドキュメンタリー|経済・ビジネス

セカンドキャリアの分岐点――世界ランク1位で引退・国枝慎吾の「未知」か「既知」かという選択

2026年6月10日

記録より記憶に残る選手という表現がある。無冠の帝王という言葉を目にすることもある。だが、国枝慎吾(42)は記録にも記憶にも残る「絶対王者」だった。グランドスラムシングルス(全豪、全仏、ウィンブルドン、全米の4大大会)車いす部門で歴代最多となる28回優勝。年間最終世界ランキング1位を10回記録。誰もなしえなかった車いすテニスの「生涯ゴールデンスラム」(4大大会すべてとパラリンピックを制覇)を達成し、23年1月に世界ランク1位のまま現役を引退したのだから――。誰よりも高い頂点を極めた人が40歳を前に引退したら、その後の人生をどのように描くのだろう。(文中敬称略)

「まだ終わってほしくない」

 1976年に誕生した車いすテニスというスポーツは、98年に国際車いすテニス連盟(IWTA)が国際テニス連盟(ITF=健常者テニスの団体)へ統合されたことを経て、2002年の全豪オープンから健常者と同一会場で試合が開催されるようになり、07年に全仏オープンが加わってグランドスラムすべて(ウィンブルドンシングルスは16年から)で行われるようになった。

「僕が初めて世界ランキング1位になったのが06年なので、ちょうどそのタイミングで注目される舞台が整い始めたというのは幸運でした。僕が競技を始めたころは日本代表クラスであってもアスリート雇用の例すら聞きませんでしたから」

 アスリート雇用とは、企業が競技活動を続けるアスリートを社員として雇用し、仕事と競技の両立を支援する制度のことである。

「競技と生活を両立させる道を切り開いたひとりが、04年のアテネパラリンピックでダブルスを組んだ齋田(悟司)さんです。もともと三重県四日市市で公務員をしながら世界中を転戦し、やがて公務員という安定した生活も捨てて、吉田記念テニス研修センターを拠点にトレーニングを続けてきた人です。齋田さんは前例のないことにもどんどん挑戦されていました。僕はその姿を見ながら企業や大学にアプローチしてきたので……。間違いなく僕の前に努力してきた先輩たちの歴史があります」

 国枝もまた、道を切り開いてきた先人の背中を追ってきたのだ。そしてグランドスラムという舞台にたどり着いたとき、今までにない光景が目の前に広がった。

「06年のウィンブルドン(ダブルス)では、約3000人の観客席がある3番コート(主要ショーコートのひとつ)で試合をしたのですが、満席でした。あんなに多くの声援を受けながらプレーをしたことがこれまでなかったので、マッチポイントが近づいてきても、まだ終わってほしくないと思うほどに楽しかったんです。健常者の大会と同一会場になったことで、より多くのテニスファンが観てくれるようになり、メディアの露出も増えました」

 WOWOWで車いすテニスが放映されるようになったのは16年のこと。賞金も、07年にグランドスラムで優勝したときには50万~60万円だったのが、22年に優勝したときには700万~800万円と15年ほどの間に10倍以上になったという。

「あれだけの観客に見守られながらプレーした感覚が、今でも自分のなかに強く残っていて。こうした大会を日本でもやりたい、やれれば若い子たちの憧れの舞台になるのではと考えてきました」

 国枝が大会側に掛け合った結果、18年からATPジャパンオープン(男子プロの大会)で車いすテニスも共催されることになり、その夢は叶うことになる。

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国枝もまた先人の背中を追ってきた

目標を持つことの難しさ

 2022年に「生涯ゴールデンスラム」を達成したのち、23年1月に世界ランク1位のまま引退を発表。なぜこのとき、国枝は引退を決意したのだろうか。

「本当は2021年の東京パラリンピック直後に引退しようと思っていました。年が明けるまで気持ちはもやもやしたままで、1月の全豪オープンにはその気持ちを抱えたまま参加したんです。すると、今までにないほどベストと思えるプレーができて、帰りの飛行機では撮影した映像をスローモーションで確認しながら、まだ技術を突き詰められるかもしれない、という気持ちが湧いてきました。ウィンブルドンだけ優勝を逃していたので、それを区切りにしようと思い直したんです。女子の車いすテニスでスーパーチャンピオンと言われたエスター・バーガーが世界ランキング1位のまま引退していたのも頭に残っていたので、2位、3位よりは1位で辞めようと意識していました」

 自身の著作『国枝慎吾 マイ・ワースト・ゲーム 一度きりの人生を輝かせるヒント』(共著・稲垣康介、朝日新聞出版、2024年)には、引退をするときの心境が書かれている。

〈2023年1月3日、ナショナルトレーニングセンターで行う午前11時からの練習に間に合わせるため、国枝は9時ぐらいに千葉県内の自宅を出た。ホンダの愛車に乗り、常磐道の流山インターを越えたぐらいで、山頂が雪に覆われた富士山が見えてきた。
 ある思いがこみ上げてきた。

「登ったなあ、登り切ったなあ」
「今度は下りよう。次の新しい山に挑戦しよう」〉

 このときすでに、次の山=セカンドキャリアは決まっていたのだろうか。

「引退後のことは32、3歳ぐらいから考えてはいましたが、『新しいことにチャレンジしたい』と漠然と考えているだけで、具体的に何をしたいというのはありませんでした。引退しないとその後のことは本気で考えないのかもしれない。競技をしていたころは、勝利とか技術の向上とかその修正とか、明確な目標があってそれに向かうだけでしたが、勝負の舞台を離れた今は目標を持つことの難しさに直面しました。

 今後何をしていくか考えていた時に、最初に思い浮かんだのは『国際的に働きたい』ということでした。それを実現するためには、もう少し英語のレベルは上げる必要があります。加えて、今後を見据えてコーチ業も経験した方が良いとも考えました。この両方を満たせる環境を求めて、引退から一年後にアメリカ代表のアドバイザーとしてフロリダへ渡りました」

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引退したあとに「目標」を持つことの難しさ

渡米して感じた学びと苦労

 アメリカでは17、8歳の選手たちに教えていたという。

「車いすテニスはアメリカ発祥なのに、20年ぐらい停滞してしまっている。そのアメリカが強くなったら、という気持ちもありました。弱いから、地元開催なのに(グランドスラムのひとつである)全米オープンがまったく盛り上がらないんですよ。テニスに限らず、アメリカではパラリンピックへの理解や興味が育っていないと感じました。だから、プロとしてお金を稼ぐこととはどういうことなのか、自分がどう活動してきたのかもアメリカの子たちには伝えました。

 アメリカは国土が広いから、選手たちは3週間練習に来て1ヵ月地元に帰り、また2週間来る、というようなサイクルを繰り返していましたが、信頼を得られたのか、1年後には僕が拠点としているフロリダへ3人ほど引っ越してきてくれたんです。自ら打ち合うことで世界トップレベルとの距離感がどれほどなのかを選手たちには見せられたかなと思います」

 とはいえ、挫折しそうになることも多かったそうだ。

「自分の体だったら自分で動かせるけど、その感覚を言葉にして選手ができるように伝えることは難しい。母国語でさえ難しいのに、それを英語で行うのですから、間違って伝わったり、理解してもらえなかったり……。もちろん、すべてが学びになりましたが、苦労もしました」

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見据える「キャリア」のその先

思い知ったコーチの大変さ

「実際にコーチをしてみる前は、自分だったらオールマイティにどのレベルの選手でも教えてあげられるはず」と考えていた国枝だったが、実際、コーチとして指導を行ってみると、まったく違っていた。

「日本では代表クラスの30歳前後の人たちを教えていますが、彼らに対してはやりやすいなと正直思います。僕は、自分の強みを活かして相手の弱点をつく、いわゆる戦術をもって試合を制するのが得意なのですが、その戦術を発揮するのにはスキルが必要です。なので、すでにスキルを持っている選手のほうが戦術も伝えやすいんですよ。一方で、低年齢の選手たちに打ち方から教えるということに関しては、まだまだ手探りで勉強しなくちゃいけないなと思うことがたびたびあります。コーチの大変さを思い知り、今ではどのレベルのコーチでもリスペクトしています」

 このままコーチを続けるのか、あるいは他の道に進むのか――。セカンドキャリアについて考えているさなか、ある人の言葉が胸に残ったという。

「まだ何をやりたいのか迷いがあるという話をしていたら、その方に『まだ(引退してから)3年でしょ? 本当にやりたいことを見つけるには10年はかかる』と言われました。それを聞いて、そうか、まだ3年の僕は新人みたいなものだな、と少しホッとしました。引退したアスリートの多くは、これまで取り組んでいた競技スポーツを活かした『既知』の道に進むのか、これまでまったく経験していない『未知』の世界に向かうのか、迷うことが多いそうです」

 車いすテニスのコーチは国枝にとっては「既知」。しかし、「未知」の道へチャレンジしたいという気持ちもある。

「お話をいただいたパリでのキャスター業やテニスとは全く違ったビジネスといった『未知』の分野にも魅力を感じていますが、今はまず、車いすテニス界に積極的にかかわっていきたいと考えています。特に、ATP(男子プロテニス協会)とWTA(女子テニス協会)という世界のプロテニスツアーを運営・管理する主要な団体のなかでも、車いすテニスをどう発展させていくか――。日本で開催される国際的なテニスの大会としては木下オープン(木下グループジャパンオープン)が知られていますが、車いすテニスも開催されるので、ルールをどうするのか、世界トップ選手に出場してもらうにはどうしたらいいのかなど、今も話し合っていますね」

 まずは、「既知」のほうで歩き出そうとしているということらしい。

「コーチをしていて、それが選手たちの結果に反映されているとうれしいし、非常にやりがいを感じます。ただ、既知であれ未知であれなにかひとつに縛られるのではなく、コーチをやりながらも何か見つかるかもしれませんし、テニスコートを出るかもしれない。もしかしたら車いすテニスという既知の分野でも未知であることに挑むかもしれません。自分ひとりで考えていても限界があるので、いろいろな人と会って話しながら、焦らずゆっくり決めていこうかと思います」

 打たれたボールを2バウンドまでで打ち返さなければならない車いすテニスで、国枝はほとんど1バウンドで打ち返す。素早い動きが特徴の国枝が自身のセカンドキャリアについて悠々と構えているのはやや意外にも思えるが、彼の人生を運ぶチェアはそう遠からず新しい2本の轍を刻むことだろう。それは既知か、はたして未知か――。

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