社会

猛反発もある中、なぜ読み継がれているのか 「体罰の意味」を説いた戸塚ヨットスクール校長の『本能の力』(新潮新書)【一挙1万5000字公開】 

2026年6月12日


<span>猛反発もある中、なぜ読み継がれているのか 「体罰の意味」を説いた戸塚ヨットスクール校長の『本能の力』(新潮新書)【一挙1万5000字公開】 </span>
戸塚宏氏

 阿部慎之助巨人軍前監督が報道の通り、酔った勢いで娘を投げ飛ばしたのならば、その行為は批判を受けて然るべきだろう。

 一方で、その代償の軽重については意見が分かれている。果たして職を一夜にして失うような行為だったのか、という疑問を呈する人は少なくない。

 そのことは「体罰」や「叱ること」の是非というテーマとも密接に関係する。「体罰は良くない」ということはおおむね社会的コンセンサスとなっている。が、「体罰はなぜ良くないのか」「そもそもどこからが体罰なのか」「いついかなる場合も良くないのか」「どのような程度であっても良くないのか」「そもそも叱るときはどう叱ればいいのか」等々、整理されていない問題が残されている。

 わが子の教育はもちろん、部下や後進の指導に悩む人にとってこれは切実な問題だろう。「いついかなる場合も𠮟りつけることや体罰は絶対に悪い」というロジックは、「どのような意図や事情があろうと、相手が傷ついたら、不快に感じたらハラスメントである」「子どもや部下を怒らずにほめて伸ばす」という近年の「常識」にも似ている。

『傷つきやすいアメリカの大学生たち 大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体』(グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト著、西川由紀子訳、草思社、2022年)序盤で紹介されているのは、ピーナッツアレルギーに関する興味深い研究結果だ。ピーナッツによるアレルギー反応を避けるために、子どもにピーナッツを食べさせないようにして育てようという動きがいつからか定着した。もちろんそれによってアレルギー反応を示す子どもは減った。しかしその後、子どもの時に適度にピーナッツを与えられた集団と、与えられなかった集団を比較したところ、前者のほうが圧倒的にピーナッツアレルギーの者が少ない、ということが報告された。子どもの時に、良くないかもしれない、というものをある程度、摂取した者のほうが結果的に、強い体質を得たことになる。

 ここから筆者たちが言いたいことは明らかだ。発達や教育の過程で、不快なもの、異物を排除することは良いとして、それが行き過ぎた場合にはかえって当人のためにならないのではないか、という問題提起である。

 これはそのまま前述の教育や指導にあたる人の悩みとも重なるだろう。本当にほめて育てるだけでいいのか、優しく懇切丁寧に指導すればいいのか、難しい壁にぶち当たるような経験をさせなくていいのか。それで目の前の人物は困難を切り抜ける力を持つことができるのか。

 こうした悩みや葛藤を抱えている人が多いことは、ある本を「隠れたベストセラー」としていることとも関係している。

 戸塚宏著『本能の力』(新潮新書 https://www.shinchosha.co.jp/book/610212/)。今から19年前、2007年の本だ。

 著者は「戸塚ヨットスクール事件」で実刑判決を受けた戸塚宏氏。体罰を肯定するその主張がテレビなどでまともに取り上げられることはない。

 しかしその反作用で、と言うべきか、彼の発言(自身のYouTubeチャンネルの他、ネット番組の切り抜きなど)は公式、非公式の形式を問わずネット上に数多く存在する。寄せられているコメントには「否」の声の一方で、賛辞も目立つ。

 現代日本の歪みは、すべて「本能の力」を軽視したことのツケである――。同書は、彼の主張をわかりやすくまとめた入門書的な本ということもあり、電子書籍はコンスタントに売れ続けている。2024年は1000冊以上、昨年は2000冊以上が購読されている。20年近く前に出た本の電子書籍としてはかなりのベストセラーとも言える数字だ。

 Amazonのレビューには、建前に終始する教育関係者への違和感を表明するものも多い。

 高支持を得ている理由の一つは、戸塚氏の主張が決して「殴って子どもを言い聞かせろ」式の根性論ではない点にあるのかもしれない。同書で戸塚氏は、感情に任せての体罰を厳しく批判している。また一定程度の年齢の相手への体罰も無意味だという。戸塚氏の論理で言えば、阿部前監督の行為は暴力であって、意味のある体罰ではないのだ。

「体罰はすべて暴力だ。愛の鞭などという詭弁を許すな」

 といった意見に対して、戸塚氏は冷静に、論理で反論していく。そして、多くの論者がヨットスクールに預けられるような、「極端な問題児」と対峙したことがない点を衝いていく。

 キレイゴトだけを言っている者は、宅間守元死刑囚(大阪池田小児童殺傷事件の犯人)と向き合った時に、どんな教育ができるのか。まったく言うことを聞かない相手に何ができるのか。愛ある説得で事態は変えられるのか。これらの問いに答えられる人がどれだけいるのか。

 むろん、戸塚ヨットスクールが死者を出した事実を忘れてはなるまい。それは戸塚氏自身も「悔やんでも悔やみきれるものではありません」と書いている。

 しかしそのうえでなお戸塚氏は自身の理論、つまり体罰の意味を正面から問うている。そのために彼はまず体罰の定義が必要だ、と説く。定義をしないまま悪だと決めつけている者が多過ぎるのではないか、と。この指摘に虚を衝かれる人も多いかもしれない。

 同書出版時よりもはるかに社会のコンプライアンス意識は高まり、体罰への見方はより厳しくなっている。しかし、いまのコンプライアンス重視の風潮に行き過ぎではないかといった違和感を抱く人が潜在的に存在しているのも事実。同書のロングセラー化はそれを示しているのかもしれない。

 果たして、戸塚氏の主張の真意はどこにあるのか。一定の共感を得ているのはなぜなのか。「体罰」の定義とは何か。

 ここでは同書の冒頭と「1 『体罰』は善である」を公開する。その是非は読者の判断に委ねたい。読み進めれば、なぜいまこの本が読まれ続けているのか、その理由の一端がわかるかもしれない。

 現代では、同書自体が「劇薬」扱いされるものかもしれない。戸塚氏と議論するつもりで読んでみるのもいいだろう。いずれにせよ、新聞やテレビでは見られない主張であるのだから。

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