英国の最優先課題は「物価高対策」
7月20日に英国の新首相に就任したアンディ・バーナム氏は、ロンドン一極集中の是正を声高に主張している。今年6月の補選で下院議員に復帰する直前まで、イングランド北部にあるかつての工業都市マンチェスターの市長を務めていた。市長時代は企業誘致やインフラ再整備など地域活性化に尽力し、実際にマンチェスターの所得を押し上げた実績を持つ(図表)。
図表 マンチェスターの一人当たりGDPの推移(ロンドン=100)
ロンドン一極集中の是正と地域活性化は裏腹の関係にある。バーナム新首相は自身の公約に従い、7月24日、マンチェスターに構えた新たなオフィス「ナンバー10・ノース」(北の首相官邸)での初公務に臨んだ。この呼称は、ロンドンにある本来の首相官邸である「ダウニング街10番地」に因んだものとされている。
バーナム新首相は権限を地方に委譲し、地方主導での社会経済の再生を主張している。疲弊する地域社会に鑑みれば、地域活性化の取り組みは必要なことだろう。一方、現状における英国の社会経済の課題を列挙した場合、バーナム新首相が掲げるロンドン一極集中の是正と地域活性化は長期的な課題であり、優先すべき喫緊の課題とはいえない。
では何が最優先課題かというと、それは間違いなく物価高対策である。欧州連合(EU)から離脱して以降、英国のインフレが粘着性を強めていることは周知の事実だ。EU離脱に伴う供給網の変化が主因だが、これにロシア発のエネルギーショックの影響や、2024年から政権を担う労働党による需要刺激策などが重なり、粘着性を強めた。
また実質所得が伸び悩む中で、貧困層も急増している。今年1月末にジョセフ・ラウントリー財団(JRF)が公表した報告書の中では、過去30年間で最悪の水準となる約680万人が「極めて深刻な貧困」(住宅費を引いた収入が英国の中央値の40%を下回る世帯)にあると指摘された。物価高は英国の社会経済の疲弊につながっているのだ。
バーナム新首相も物価高対策の重要性を認めるところであり、すでに様々な政策を打ち出している。代表的なものが燃料費減税で、具体的な内容としては、家庭用の電気料金に課されている付加価値税(VAT)を10月より廃止するものである。この措置を通じて、各世帯の負担が年間で約45ポンド(おおよそ9800円)軽減されるという。
それ以外にも、パブやクラブ、ライブ施設への減税措置がある。これらの運営者に対しては、新年度となる2027年4月から固定資産税が20%減免される。減税の対象となる施設は3万2000店舗で、一般的なパブでは年間1100ポンド前後の負担が軽減される計算だ。パブなどの経営を支援する狙いからだが、いかにも英国らしい政策だ。
とりわけパブは、英国民にとっての社交の場であり、憩いの場でもある。だが既往の物価高やライフスタイルの変化を受けて経営不振に陥るパブが続出しており、廃業も相次いでいる。減税でパブなどの経営を支援し、モノやサービスの提供価格の上昇を抑制すれば、英国民の生活支援につながるという意図がバーナム新首相にはあるようだ。
他方で、こうした物価高対策は、税収の減少につながると同時に個人消費を刺激する性格を持っている。税収の減少は通貨安要因となるし、個人消費の刺激は物価高要因となる。物価高を抑制するどころか、かえって物価高に拍車をかけかねない性格を持つわけだ。したがって、本来なら貧困層に限定した支援策などに的を絞ることが望ましい。
そもそも最良の物価高対策は、財政を拡張しないことに尽きる。これはマクロ経済運営の基本であるが、国民の生活に短期的とはいえ痛みを強いることから、就任早々のバーナム新首相が口にできなくて当然だ。しかし今後も減税や給付などによる物価高対策をいたずらに強化しようものなら、財政悪化を懸念する金融市場から厳しい評価を受けよう。英国の公的債務残高は名目GDP(国内総生産)の100%前後と日本の2分の1だが、国債の消化の3割を海外投資家に依存しているため、ある意味では日本以上に財政拡張余地に乏しい。
「物価高対策」がカギを握る「首都機能移転」の行く先
こうした喫緊の課題に取り組んだ先に、長期的な課題である地域活性化にも目を向けていくことになる。バーナム新首相は地方に権限を委譲すると主張しているが、行財政のあり方を大きく変えることになるため、その制度設計は慎重に行われる必要がある。それに、疲弊する地域社会の活性化には老朽インフラの更新が不可欠だろうが、それこそ多額のコストがのしかかる。
そもそも、グローバルにヒト・モノ・カネといった生産要素が不足している以上、投資をしようにも生産をしようにも、必要なヒト・モノ・カネが足りないのだから、あらゆる領域で取り合いが生じる状況だ。それがまた物価高につながり、国民の生活を苦しめることになるため、まずは物価高をどうにかしないと、地域活性化の取り組みは進まないわけだ。
実際にマンチェスターの所得を押し上げただけに、バーナム新首相の手腕に期待が集まることは当然である。ただし、地方都市の首長と、国の首相とは、求められる視点や手腕が異なる。「ナンバー10・ノース」への一部政府機能の移転のほか、地方首長の国政参加、交通サービスの地域への権限移転など、マンチェスター市長時代の実績をロールモデルにした政策も大変に結構なことだが、求められる姿勢はあくまで一国の首相としてのそれであることを忘れてはならない。優先すべき政策の順位を誤るようでは、結局のところ短命政権に終わるだろう。
同じく物価高に見舞われている日本においても、首都機能の分散は大きな政策課題となっている。おりしも、7月24日にはいわゆる「副首都法」が参議院本会議で可決・成立したばかりだ。いの一番に副首都に名乗りを上げたのは大阪の吉村洋文知事だが、同知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」は、マンチェスター市長時代からバーナム新首相との間でチャネルづくりにいそしんでいたようだ。
いわゆる首都直下型地震の可能性や、富士山の大噴火の可能性など、首都・東京を取り巻くリスク環境は確かに厳しいものがある。その意味で、日本でも首都機能の分散や移転は重要な政策課題と言って差し支えない。そうした取り組みが地方の中核都市を中心とする地域活性化の起爆剤になる可能性も、十分に意識されるところではある。
一方で、首都機能の分散は東京の行政力や経済力の低下につながる恐れも大きい取り組みであるがゆえに、慎重に行われる必要がある。それに、そもそも論となるが、首都機能の分散や移転を図るうえで最も必要となる条件は、それを牽引する政権が安定していることに尽きる。
政権が安定するためには、何よりも国民の評価を得る必要があることを考えると、日本でもやはり物価高対策が最優先であり、かつそれは補助金の給付などではなく、健全な財政を意識した円安抑制策であるべきだろう。