ウクライナにとって、ロシアは長い間、最も身近な国家だった。かつてソ連の中に同居し、1991年の独立後も頻繁な行き来や交流が続いた。2017年まで欧州連合(EU)への渡航にビザが必要だったウクライナ人にとって、多くの場合の留学先や出稼ぎ先、大きな買い物をする際の行き先はモスクワだった。「兄弟国」と呼ばれた両国の密接な関係を反映して、多くのウクライナ人はロシア国内に家族や親戚を持っていた。
2014年のロシアによるクリミア半島占領とドンバスへの軍事介入、さらに2022年のウクライナ全面侵攻は、国家同士の関係だけでなく、このような家族関係も引き裂いた。ロシア軍による攻撃から必死に逃れるウクライナ側の人々と、「ウクライナはファシストに支配されている」などというプーチン政権のプロパガンダに染まったロシア側の人々とで、信頼関係を築くのは難しい。国境を越えて暮らす親子や兄弟が縁を切ったり接触を断ったりした例は、枚挙にいとまがない。
この現象は、双方の価値観が交差するロシア占領地で、さらに先鋭的な形となって表れている。本連載「子どもたちの世界(3) 少女たちは自由を選んだ」でも紹介したが、親と子が異なる価値観を抱いた末に、親との関係を断ってウクライナ側に脱出する未成年は多い。
2023年に占領地からウクライナ本土に逃れたティヤ(22)の一家も、ロシアの侵略によって分断された家族の例である。
混乱の中で芽生えたウクライナ人としての民族意識
ティヤは、ウクライナ東部ドネツク市の東隣にある工業都市マキイフカで生まれ育った。かつては炭鉱として栄え、閉山後も製鉄所や化学工場などを有し、一時期は人口が40万人を超えた街である。
ティヤはここで、家庭でも学校でもウクライナ語を話しつつ成長した。この地域はロシア語話者が多数を占めるものの、ウクライナ語話者もそれなりにいる。学校教育では両言語が使われていた。
2014年春、ロシア軍がクリミア半島を占領するとともに、ドネツク、ルハンスク両州に軍事介入した。マキイフカは、ドネツク市とともにロシアに占領され、非承認国家「ドネツク人民共和国」に所属するとされた。ティヤ9歳の時だった。
ロシア軍が駐留してきたのは4月で、その学年は5月に終了した。大きく変わったのは9月に新学期が始まった時である。ウクライナの学校では教科書を使い回しするため古びてぼろになっているのだが、新学期の教科書は新品で、しかもロシア語だった。自分の地域がロシアに組み込まれている地図も掲載され、ロシアの偉大さを称えるプロパガンダにあふれていた。ロシア軍がトラックに積んで持ち込んできたと聞いた。
これまでの連載の証言者が伝えるように、学校では軍事教育が施されるようになった。女子は、生理用のタンポンで傷口を押さえて出血を止める戦時の救急医療法を習った。ティヤの目にはくだらないと映った。
ウクライナ統治時代に比べ、食料や医薬品などの物資が欠乏するようになった。ティヤが小さなころからなじんでいた菓子も、店頭から消えた。好きだったテレビアニメも、ロシアのアニメに取って代わられた。彼女の中で、ウクライナ統治時代を懐かしむ意識が徐々に強まった。
やがて、学校にロシア出身の子が増えてきた。占領行政やビジネスのためにロシアから移住してきた人々の子らである。彼らは、ウクライナ人に対する上から目線の態度を露骨に取った。ウクライナ人を外国人扱いし、「お前たち、ドネツク人民共和国って国の国民なんだってね」とからかった。
もっとも、ティヤにとってもこの共和国は不思議な存在だった。世界にそんな国など実は存在しないともわかっていた。ウクライナ国民でもロシア国民でもない。存在しない国の国民である自分っていったい何なのかと悩んだ。
両親は変化に順応した。「ロシアが助けに来てくれた」などと無邪気に喜んだ。その様子を目にして、ティヤは余計にわけがわからなくなった。
2020年に隣国ベラルーシで起きた民主化運動は、ティヤが抱く違和感をより一層強めることになった。8月の大統領選でアレクサンドル・ルカシェンコ(72)が約8割の得票を得て6選を決めたが、大規模な不正が取り沙汰され、抗議運動に発展した出来事である。多数の民主運動家が逮捕され、ベラルーシが国際的な孤立を深める要因となった。
ロシア人の子どもたちは、ニュースに現れるベラルーシ人たちもばかにした。民主化運動に携わる人々が話すベラルーシ語を嘲り、民族衣装をからかった。その様子を見たティヤは、逆にウクライナ人としての民族意識を強めた。
「伝統の言語や文化の美しさを、ロシア人はわかっていない。私たちとは意識が違う」
2021年、彼女は17歳でドネツク国立大学に入学した。言語学者を将来の職業と思い描き、ウクライナ語やベラルーシ語、ポーランド語を学ぶスラブ言語学科を希望した。自らのアイデンティティーを意識してのことだったが、母親は猛反対した。
「そんな言葉を学んで何の役に立つのよ。ロシア語を学びなさい。私たちが学費を払うのだから、言うことを聞いて」
ティヤは仕方なくロシア語学科に入った。酒好きでロシアを信奉する両親とは仲違いが多くなり、次第に口も利かなくなった。
大学1年の最初の学期が過ぎ、年が明けて1月に期末試験があった。それを終えて友人たちとワインパーティーを開いていた時のことである。普段会うことのない兄から連絡が来た。
「戦争が始まるぞ。一刻も早くマキイフカから逃げろ」
ウクライナ軍の兄からの誘い
9歳年上の兄は、地元の強豪プロサッカークラブ「シャフタール・ドネツク」の熱狂的なサポーターだった。2014年にドネツクがロシアの支配下に入った際、「シャフタール」はクラブごと西ウクライナのリヴィウに亡命し、以後ウクライナ各地やポーランドなどを転々とした。18歳だった兄も、普段から折り合いの悪かった両親と袂を分かち、当時開いていた境界を越えてウクライナ統治地域に移った。
兄はその後、密かにウクライナ軍に入隊し、ウクライナ東部の戦線でロシア軍と戦うようになっていた。それを両親に告げなかったのは、「息子がウクライナ軍にいる」とばれるとロシア占領当局から両親に危害が及びかねないからである。彼が新たな戦争を察知できたのは、軍の中で様々な情報に接していたからだろう。
しかし、ティヤはその時まだ、マキイフカで戦争の気配を何ら感じないでいた。友達仲間の間で「本当に戦争が起きる」との情報が広がったのは、それから何日か経ってである。
「集まって避難しよう、移動のための書類が必要なのでは」
「でもどこに」
「ロシア側に逃げるしかないのか」
みんなパニックに陥った。ロシア軍がウクライナに全面侵攻したのは、その3日後だった。
同級生のうち、男たちはロシア側で徴兵の対象となった。街中でいきなり捕まえられ、戦場に送られた人もいる。なかには、前線で負傷し、障害者となって退役した人もいるという。
このころ、ティヤは「いつかウクライナに行く」と決心するに至っていた。ウクライナ・アイデンティティーが強い自分はもはやロシア統治下で生きていけそうにないこと、ウクライナ軍にいる兄の存在がばれると自らの身に危険が及ぶことも意識した。ただ、そのための資金もなければ旅券も持っていない。何をすればいいのか、ノウハウもない。
ウクライナを支持する友達仲間と、チャットグループをつくった。ばれると刑務所行きだから、慎重に事を進めた。情報を交換する中で、ロシアから欧米に出国する可能性もあるとわかってきた。ティヤはただ、兄がいるウクライナに直接出ようと考えた。早く行かなければ兄に会えなくなるかもしれないと焦った。
子どものころはよく喧嘩もした兄だが、ウクライナ側から様々なアドバイスをくれるようになった。戦争の背景について、ロシア人の考え方について、ウクライナ軍の実情について、ティヤの疑問に1つずつ答えてくれた。
兄は結婚離婚の後、ウクライナ南部オデッサで書店員として働く女性とつきあっていた。
「オデッサには海があるから、ウクライナに来たら一緒に夏休みを過ごそう。彼女を通じて本も手に入るよ」
読書好きのティヤに、兄はこう誘った。人を通じて、マキイフカの自宅まで漫画を送ってくれたこともあった。
ティヤは、18歳になったのを機にバイトを始めた。家事手伝いや家具店店員として働き、資金を蓄えた。
2023年10月10日、19歳のティヤは決行の日を迎えた。両親には「フィンランドに行く」と告げた。前線に近いマキイフカから避難した方がいいとの点で、両親にも異論はなく、バス停まで荷物を持って見送ってくれた。スーツケースと2つの大型カバンが計30キロに及んだのに加え、拾って育てていた猫を入れた籠も抱えた。行く先々が間もなく迎える晩秋に備え、服を何枚も重ね着しての出発だった。
いわゆるドネツク人民共和国とロシアとの間は、自由に行き来できるわけではない。多数の検問が設けられ、ウクライナに関係していると見なされると拘束される。占領地からの脱出を支援するウクライナのボランティアから「兄がウクライナ軍にいるとは口が裂けても言うな」との助言を得ていたティヤは、「ロシアの友人に会いに行く」などと口実を述べた。また、バカである振りに徹した。
「自分がいかに教養のない人間であるかを見せると、通してもらえやすいのです」
5日間かけてバスと電車を乗り継ぎ、時にはボランティアが手配してくれた車も利用して、ロシア西部ベルゴロド州の国境の村コロティロフカにティヤはたどり着いた。
脱出ルートのいたちごっこ
ウクライナとロシアとの間は、2015年を最後に直行便が飛ばなくなったものの、一部の陸上国境はその後も開き、人や物資が行き来していた。ウクライナとロシア占領地との境界も、警察や軍の許可を得れば行き来できた。筆者は2015年、ハルキウから境界を越えてドネツクに入ったが、持っていないタバコをロシア側でせびられた以外は大きなトラブルもなかった。
2022年の全面侵攻後、ウクライナと占領地との境界やロシアとの国境は大部分が閉鎖される一方で、ウクライナ南部や東部に「人道回廊」の検問がしばらくの間設けられ、避難する住民らを通していた。基本的には占領地からウクライナへの一方通行だったが、検問を逆行してキーウのジャーナリスト、ヴィクトリヤ・ロシナ(1996-2024)がザポリージャ州の占領地に入って取材していたのは、本連載第4部「ヴィクトリヤの軌跡」で詳述した通りである。
人道回廊はその後、前線が硬直化するに伴って次々と閉鎖され、ロシア・ウクライナ間の陸上通過地点として最後に残ったのが、このコロティロフカ村からウクライナ北部スーミ州ポクロウカ村に抜ける人道回廊だった。1日あたり数十人から、多い時で200人がロシアを出国し、ウクライナに入国した。徒歩での越境が原則で、ウクライナからロシアへの入国は認められなかった。
ティヤが訪れてから約10カ月後の2024年8月、この通過地点も閉鎖され、ロシアからウクライナへの直接移動はできなくなった。以後、脱出ルートとして現在も使われているのが、ベラルーシ西部のモクラニとウクライナ西部ドマノヴェとの国境である。辺境部に位置し、それまで1日1人が通るかどうか程度だったこの国境は、コロティロフカ・ポクロウカ国境が閉鎖された途端、通行者が急増した。占領地から逃れる人々が、観光を口実にロシアからベラルーシに出国し、ここを目指すようになったのである。
現在ではそのほか、ロシアからバルト三国やジョージア、トルコなど第三国を経由してウクライナに行くルートも利用されている。どの国を経由するかは、状況次第である。「この国を経由して脱出した」などという記録が公的文書に掲載されたりメディアで報じられたりすると、ロシアはその出口の監視を強化する。別の出口に希望者が集まる。いたちごっこが続いているという。
占領地の住民にとって一番の問題は、ウクライナの旅券を持たないことである。ドネツク人民共和国、ルガンスク(ルハンスク)人民共和国の旅券が他の国で通用しないのは当然だが、申請すれば取得できるロシアの旅券でさえ、ウクライナにも他の多くの国にも通常は入国できない。ロシア旅券には出生地が記載されるため、占領地でロシア旅券を取得することはすなわち、ロシアによるウクライナ占領を受け入れたと見なされるからである。
ティヤの女友達の1人は、ロシア旅券でカザフスタンに出国し、そこでウクライナへの亡命を申請しようと試みたという。ところが、旅券を認めない現地当局によって、ロシアに強制送還されそうになった。ロシアに戻ると、刑務所行きが待っている。大騒ぎになり、ウクライナの政治家を通じてカザフスタンの政治家に働きかけてもらい、何とかウクライナにたどり着いた。彼女は今、キーウでドローン製造に携わっているという。
ノーマンズランドを歩いて検問所へ
ティヤは、たどり着いたコロティロフカ村のロシア側検問所で、下着を1枚ずつ調べるほど厳格なチェックを受けた。
「携帯、iPad、パソコンはすべて取り上げられ、チェックされます。特に中に入っている写真が問題で、ウクライナ軍の攻撃を受けて壊れた建物の写真などは許されません。SNSでどんな投稿をしていたのかも調べられました」
ティヤはこう振り返る。
検問では尋問も受けた。嘲るような態度の担当官が、何度も同じ質問をする。その答えから矛盾を引き出そうとするのである。ロシアに戻るよう説得もされた。
「ウクライナに行っても、すぐに殺されてしまうぞ」
「お前はウクライナで用なしなのだ」
「すぐにロシアに戻ってくるはめになる」
そう脅されつつロシア側の検問を出て、ウクライナ側検問所までの行程は約3キロのノーマンズランドである。未舗装の登り坂で、荷物の多いティヤには大変だった。スーツケースの車輪は砂利道で使えず、荷物を一度に持っていけない。半分抱えて少し進み、残りの半分を取りに戻る。行ったり来たりで、通常の3倍の距離を歩かなければならなかった。検問を同時に出た15人ぐらいの一団は先に行ってしまい、ティヤは1人荒野に取り残された。
周囲に広がる枯れ野は、足を踏み入れられない地雷原である。そこには、衣類や書籍、子どものおもちゃ、ロシア側で必要だった書類などが無造作に放置されている。登り坂が苦しいため、人々が荷物を諦めて捨てていくのである。汗びっしょりになったティヤも、重ね着の服をそこに捨てた。
ウクライナ側検問まであと600メートルほどのところで、ティヤはとうとうへたばってしまった。「もう進めない」。しかしロシアに戻るわけにもいかない。
弱り果てていると、先に行った3人が助けに戻ってきてくれた。男性がスーツケースを持ち、少年が猫の籠を抱え、初老の女性が鞄の1つを持ってくれた。残る鞄を彼女自身が持ち、弾痕で穴だらけのウクライナ国旗が翻る検問所にたどり着いた。
占領地でロシアのプロパガンダを耳にしていたティヤは、ウクライナ側の検問にも大きな不安を抱いていた。「両親が親ロ派だとばれたら拘束されるのではないか」などと心配した。彼女はドネツク人民共和国の旅券しか持っておらず、入国できるかどうかも定かではなかったが、保管していた出生証明を見た検問の担当官は「大丈夫、何とかなりますよ」と親切に対応した。4時間ほどかけた持ち物の検査の後、彼女は入国を認められた。
遺影との再会
ティヤは早速、兄に連絡を取った。
「私はウクライナにいるよ」
無事を喜ぶ兄は、「1つだけお願いがある。軍には入らないでほしい」と言った。占領地から逃れてき若者は、ウクライナへの憧れが強いあまり、自ら軍に志願して戦うケースが少なくない。しかし、軍がいかに危険かを、兄は自らの経験から十分認識していた。
ティヤは、マキイフカにとどまる両親にも連絡をした。「ウクライナなんてあと3日で消滅するよ」と両親は悪態をついた。両親からは以後も3ヶ月間、ウクライナを非難するメールが毎日のように届いた。
前線にいる兄とはすぐに会えないため、ティヤは北東部の中心都市ハルキウのアパートで、やはり占領地を脱出した友人と一緒に暮らすようになった。それから3年が経つ。同居の友人はその後、ウクライナ軍に志願し、現在は前線都市クラマトルスクで戦闘に参加しているという。
その後、兄とは会えたのか。彼女の答えがこれまで通り淡々とした調子だっただけに、その言葉に筆者は思わず絶句した。
「兄は昨年亡くなったのです。生きている姿は見られませんでした」
30歳を目前に控えた2025年、ティヤの兄はルハンスク州の戦場で死亡した。ドローンの直撃を受け、遺体からは頭部が失われた。葬儀はオデッサで営まれ、ティヤも参列した。頭のない遺体を直視できず、遺影と一緒に写真を撮るのが精一杯だった。
「会って一緒に写真を撮る日を夢見ていたのですが、かないませんでした」
その後、戦没兵士の人生に焦点を当てた番組をハルキウのラジオが放送していると知り、連絡を取ったのがきっかけで、そのラジオ局のスタッフと知り合った。半年後、記者が徴兵されて人手不足となったラジオ局から誘いを受け、記者として働くようになった。以後、8カ月になる。この間、占領地からの脱出者に対するウクライナ側の法制上の課題を指摘した番組をつくり、地元の番組コンクールで優勝し、2026年9月にはキーウのテレビ局で記者研修を受ける機会も得た。
日夜攻撃にさらされるウクライナでは、精神的、心理的なストレスを抱える人が多く、大きな社会問題となっている。ティヤ自身もストレスに日々悩まされる。これが彼女の、次の取材テーマになっているという。
侵略戦争をロシアが起こさなければ、ティヤは兄を失うこともなければ、両親と別れることもなかっただろう。ただ、このような例は、占領地で決して珍しいわけではない。彼女と似たような思いを抱いて、多数の若者が今も日々、ウクライナへの国境を越えている。