経済・ビジネス

ネパールで貧困と戦う日本人(2) ヤマハの浄水装置が生み出す海外市場

2023年4月9日


<span>ネパールで貧困と戦う日本人(2) ヤマハの浄水装置が生み出す海外市場</span>
ネパールで水質調査を行うヤマハ発動機の藤本顕允氏(中央) ©ADRA Japan

途上国で人道支援に携わるのはNGOだけではない。汚染されていない飲料水に乏しいネパールで浄水装置を設置するのは、東証プライム企業のヤマハ発動機だ。オートバイを主力製品とする同社が、なぜ浄水事業に取り組むのか。一見すると単なる慈善活動にも思えるが、その社史を紐解けば、「資金的に余裕のあるうちに次の仕事を研究し、糸口をつくる」という、創業以来の一貫した経営戦略とも通底している。(前回記事はこちらからお読みいただけます)

 

水サンプルの60%が大腸菌で汚染

 ネパールの山村部では、人が暮らす空間の下で家畜を飼う光景が見られる。所謂、高床式住居だ。家畜のなかでも豚は人糞を餌とするため、人間が近付くと腰のあたりに顔を寄せ、“食料”をせがんでくる。

 2015年4月にマグニチュード7.8の大地震が起こり、さらに2020年からの新型コロナウイルスの流行が追い打ちをかけて観光ビジネスは大打撃を受けたが、それでも首都カトマンズ周辺には都会的な暮らしがある。地方に行けば行くほど、世界で34番目、アジアで6番目というネパールの貧しさを、否が応でも感じる。こういった貧困地域で深刻な問題となるのが、水事情だ。

 かつて、カブレ・パランチョーク郡で簡易保健所の設立に携わったNGO団体ADRA(Adventist Development and Relief Agency)の日本人スタッフは、ドラム缶に雨水を貯め、飲料水としていた住民の姿を目の当たりにしている。また、簡易保健所のドアを開ける人に下痢の症状が多いこと、さらには当地の住民が一様に痩せている点に着目した。

 バルディヤ郡を訪れた別のADRAスタッフは、井戸水で歯を磨く様や、頭の上に籠を載せて移動し、川で洗濯するネパール人女性の日常を目にしてきた。長閑ではあるものの、当然のことながら、井戸水も川の水もWHO(世界保健機関)が定めた「飲料水として適した数値」に達するはずもない。日本の外務省HPにも、「2021年に行われたカトマンズ盆地における調査で、水道水やペットボトルの水を含む様々な水サンプルの60%が、大腸菌で汚染されていた」と書かれている。

 そんなネパールに浄水装置の設置を決めたのが、ヤマハ発動機である。間もなくヤマハ発動機とADRAが手を組み、ネパール、ルンビニ州バルディヤ郡バルバルディヤ自治区にあるダケラというコミュニティーに浄水装置が据えられる。塩素消毒以外に特殊な化学物質を使わない、緩速ろ過により飲料水を提供する27トンの装置は、一日に8000リッターの透き通った水を生み出し、24時間でおよそ2000人のネパール人の喉を潤すこととなる。

 ヤマハ発動機は1974年にインドネシアに自社工場を建設したが、数年が経過した頃、駐在員から「水道の水が茶色くて困る」という声が上がる。同時に、社員の家族たちからは「洗濯物が黄ばんでしまう」「子供のアトピーがひどくなった」という苦痛の声も漏れた。

 そこで後に社長となる長谷川武彦氏がインドネシア大学を訪問し、共同でジャカルタの水質調査を提案。家庭用浄水器の開発に取り組み、1991年よりアフターサービスとセットにした販売を開始した。以後、村落単位の浄水装置を造り、発展途上国に対する水支援を続けている。

 長谷川元社長は2003年に刊行した自著で記している。「今のところ、何の儲けにもなってはいない。『ヤマハ(発動機)という会社が来てくれて良かった』。現地の人にそう思ってもらえればそれでいいと考えている。(中略)ヤマハ発動機の企業目的は『感動創造』である」

 今回は「水が変われば、暮らしが変わる」をキャッチコピーに、道無き道を拓き、発展途上国に強いヤマハ史の一部分を覗いてみたい。

アフリカ12カ国で31基が稼働

 1973年に入社し、アフリカ市場の開拓に邁進した元社員、斎藤平三氏(68)に話を聞いた。

 「私が入社した頃は、ヤマハ(発動機)だけでなく、日本社会全体が右肩上がりでした。新入社員の同期が1000人くらいいましたよ。私の生まれは福島ですが、高校時代にヤマハ(発動機)のバイクに乗っていましてね、好きな二輪の世界で生きていけたらと受けたら受かっちゃったんです。当時、川上源一さんが、楽器、発動機と両方の社長をやられていました」

 今やピアノで世界的に有名になったヤマハ株式会社の前身である日本楽器製造は、第二次世界大戦中、金属製のプロペラを造っていた。戦後のピアノ生産もプロペラ製造も順調だった時期に、第4代日本楽器製造社長の川上源一氏が「会社がある程度成績を上げ、資金的に余裕のあるうちに次の仕事を研究し、勉強し、その仕事の糸口をつくっておく必要がある」と判断。プロペラ造りの技術を生かし、GHQが贅沢品だと見ていたオートバイ産業に参入した。ヤマハ発動機が産声を上げたのは1955年、玉音放送から10年後のことである。……

おすすめの記事

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

おすすめの動画

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

ニュースレターを購読する

新潮QUEは、「問う力」を養っていくためのサブスクリプションサービスです。

無料登録する