「ある朝目覚めてみると有名人になっていた」。これは19世紀の英国を代表する詩人、ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824)が彼の代表作『チャイルド・ハロルドの巡礼』を発表した直後に記した、有名な一節である。読者のなかにもバイロンの愛読者はいるかもしれないが、その彼が「バイロン男爵(Baron Byron)」という歴とした貴族の家に生まれ、貴族院議員の議席も有していたことは意外と知られていないかもしれない。
パリで客死した初代男爵
バイロンの一族は、元々はイングランド北西部のランカシャーに所領を有していたが、16世紀半ばのサー・ジョン・バイロンの時代に中北部のノッティンガムシャーに建つニューステッド・アビー(修道院)が国王ヘンリ8世から下賜され、以後はここが拠点となった。
まず一族のなかで頭角を現したのがジョン(1598/99~1652)。彼はノッティンガムシャー選出の庶民院議員となり、ときの国王チャールズ1世の側近に取り立てられる。王の失策でスコットランドで反乱が勃発するや、ジョンはすぐさま兵を集めて鎮定に乗り出す。しかし事態はやがて清教徒革命(1642~49年)へと発展した。国王派について、当初は連戦連勝の勢いを示したジョンは、1643年についに国王から初代バイロン男爵に叙せられた。しかし、オリバー・クロムウェルの登場で1645年頃からは逆に連戦連敗へと追いやられる。チャールズ1世の首は切り落とされ、議会派の勝利で革命は幕を閉じた。ジョンは生き残った王族たちと一緒にフランスに逃れ、パリで突然この世を去った。
海軍提督の祖父、女たらしの父
爵位はジョンの弟リチャードの家系に引き継がれ、第4代男爵ウィリアムの次男ジョン(1723~1786)が次の傑物となった。彼は海軍の将校になり、船で世界中を廻った。アフリカ、大西洋、南米、太平洋、そしてカリブ海。彼は最後は提督にまでのぼりつめ、文字通り「七つの海の覇者」となっていた。ところが同じ名前の長男ジョン(1756~1791)は、陸軍将校となったものの、父とはまったく比較にならない、箸にも棒にも引っかからない男になってしまった。バイロン大尉はハンサムで女たらしであった。……