カルチャー

はじめに 「日本史」の来歴をたずねて

2023年7月29日


<span>はじめに 「日本史」の来歴をたずねて</span>
今まで、あまたの「日本史」を語る本が刊行され、読まれてきた(写真はイメージです)

 本連載では、さまざまな「日本史」を並べて比べ見るということをしてみたい。ここでの「日本史」には、「日本という国や社会についてのある程度のまとまった長さを扱う歴史記述」といった程度の曖昧な定義を与えておきたい。想定している典型的な例は、個人の著作、つまり一人の手で書かれた日本の「通史」である。独力でというのが大事なところなので、たとえ書名として「日本通史」と銘打っていても複数人が時代別に分担して執筆したものは含めない。したがって、(その読者数はきわめて多いはずだが)いわゆる山川出版社『日本史』などの教科書類もこれに含めない。教科書は通常、複数人で執筆され、しかも検定を経て刊行されるからである。本連載は、個人が一人で書いた「通史」としての日本史を、主として取り上げる予定である。

 もっとも、「通史」といってもその定義もまたなかなか難しい。そもそもどの時代から話を始めれば「通史」になるのかは必ずしも自明ではない。それはどのような時間的・空間的まとまりを「日本」とみなすかという著者の「史眼」や「史観」と、密接不可分に結びついているからである。したがって、ここでいう「通史」というのも、歴史的事象を漏れなく満遍なく、バランスよく扱っている歴史叙述であるということを必ずしも含意しないことは強調しておきたい。むしろ反対に、本来無限に存在する歴史的事象のうちで何をどのように取捨選択するか、その結果としてある「まとまり」をいかにして造形するか、そうしたことを意識している歴史叙述のことをここでは「通史」的な仕事として意識しているというわけである。「まとまり」の長さではなく、それを切り出す際の「史眼」や「史観」に注目するというのが肝心なところである。

 本連載では、アカデミックな歴史学の訓練を受けた狭義の歴史学者だけでなく、作家やジャーナリストの書いた「日本史」も扱う予定である(むしろそちらの場合の方が多いかもしれない)。それはアカデミズムに属する歴史学者は専門性を重視するあまり「史眼」「史観」の露出に禁欲的である場合が少なくないからである(アカデミックな通史が通常は複数人で分担執筆されるのもそのためである)。また、上記のような趣旨から、純然たる創作物、たとえばいわゆる歴史小説も扱う予定である。一見すると「通史」という字面からは離れてしまうように見えるかもしれないが、お許し頂ければ幸いである。

歴史を「まとまり」として記述する

 では、「史眼」「史観」に沿って切り出される「まとまり」としての日本史。それを並べて見ていく際に、どのような点を意識するのか、あるいはどのような点をあえて意識しないのか。……

おすすめの記事

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

おすすめの動画

すべて見る
戻るボタン 次へボタン

ニュースレターを購読する

新潮QUEは、「問う力」を養っていくためのサブスクリプションサービスです。

無料登録する