公立小学校から難関私立中学校へ
中学校の受験で思い出すのは「ただ、ただ、辛かった」ということに尽きますね。私は生まれが横浜で、小学3年生の時に父の仕事の都合で引っ越していた大阪から戻ってきたんです。転校先の小学校では、当たり前のように関西弁をイジられまして。そもそも私は人見知りということもあり、周囲になかなか馴染めませんでした。友だち作りも下手で、そのうえ勉強も苦手。塾の成績は本当に良くありませんでした。
ただ、運動は得意で足は速く、サッカーも大好き。「将来はサッカー選手になろう」って考えていた時期もあったくらいです。でも、日本代表が活躍する姿を見ても、経済的にはアルバイト生活を強いられていることがニュースで取り上げられたりして、親からは猛反対されていました。
私は幼稚園の頃から複数の習い事に通っており、その一つが習字教室でした。そこでは勉強も教えてくれたので、学習塾と言えなくもないかもしれません。中学校受験を念頭に置いた、いわゆる受験対策を始めたのは4年生になってからです。
私が通っていた塾の人たちが目指す私立中学は、多くの女子が横浜市中区のフェリス女学院中学校、男の子は同じ横浜市中区の聖光学院中学校か、鎌倉市にある栄光学園中学校でした。
数ある候補の中からフェリス女学院中学校を選んだ理由は二つあります。ひとつは所在地が自宅から近かったこと。最寄りの駅から電車で3つ目の駅というロケーションで、通学にはとても便利だったんです。もうひとつは、むしろこちらがメインですが、フェリスは女子校の中ではとても自由な校風だと聞いていて、そこに親しみを感じたことが大きかった。
もともと両親は「小学校はさまざまな子どもたちと交流するべき」との考えの持ち主で、私を公立の小学校に通わせたのですが、中学校からは私立に行かせようと考えていました。
私は「それならサッカーが強いところもいいな」という程度に考えていたのですが、そういう学校は家から遠いところばかり。加えて、親は私が偏差値の低い学校に行くことに強く反対しており、「日本代表に入って活躍しても、生活は苦労する」というその時の背景もあり、また、自分にもそこまでに自分の意思を押し通す強さもなかったので、サッカーの強豪校への進学は断念せざるを得ませんでした。
父親は“慶応一家”の育ちなんです。父方の親戚はほとんど慶応のOBやOG。父方の親戚が集まると、なんと言うか「慶応愛」がすごい。時には慶応以外の学校や大学を見下すような言い方をすることもあり、私はそういうところにちょっとした不快感や反発心を覚えていました。そんなこともあって、私の頭に慶応という選択肢はありませんでした。親は私を慶応に行って欲しかったようでしたけれども。
母親が双眼鏡で娘の学校生活を観察
小学時代の私はとにかくヤンチャと言うか、学校生活が結構な程度で荒れていました。先生に反抗的な態度を取ることも多く、授業が始まっても図書室にこもり続けたり、友だちと外にサッカーボールを持って遊びに出て、教室に戻らなかったり。とにかく、反発ばかりしていたんです。
通っていた小学校はかなり自宅から近いところにありました。母親が自宅から双眼鏡で私の様子を観察することができたほどです。私が授業をサボって校庭なんかで遊んでいると、その姿を見とがめた母親が血相を変えて飛んできて、「なにやってるの!」「ちゃんと授業に出なさい!」なんて怒られたこともありました。
勉強が苦手だった私ですが、学習塾に通っていると公立小の授業や試験はとても簡単に感じるようになってきて、学校の試験のための勉強は一切しなくなりました。“落ちこぼれ”は周囲の学力についていけないことを指しますが、その逆で学校の授業を退屈に感じる“吹きこぼれ(浮きこぼれ)”もいるんです。ある時、私は試験問題が簡単すぎて解答用紙に書き込むのがバカらしくなって、白紙で提出したことがありました。それでも、吹きこぼれに属する私の反発心を先生は理解していたのでしょう。とくに叱られもせず、ただ「せめて名前は書いて出して下さい」なんて言われただけで済みました。いま思うと、先生に申し訳ないです。塾での成績の悪さや中学受験のプレッシャーなどから、さらに自分が人間的に未熟だったので、そうしてしまったんだと思います。
高校受験では内申点も大切な要素であり、評価が低ければ良い高校には進めません。もし、先生の指示に従わず、協調性に欠けるという反抗的な態度が中学校でも続いていたら、良い内申点など絶対に期待できません。そんなこともあって、両親も私も「中学受験をするしかない」と考えるようになっていました。
勉強嫌いで反発心はとても強い。にもかかわらず、私が中学受験に踏み切ったことを不思議に思う方もいるでしょう。私の受験勉強に向き合う気持ちが整ったのは、ちょっと遅くて6年生の12月頃でした。当時、私はSAPIXや四谷大塚といった大手ではなく、あまり大きくない塾に通っていました。
「磯子の二宮金次郎」と呼ばれて
先ほどお話しした通り、私の第一志望校はフェリス女学院中学でした。他の学校にはあまり興味はありませんでした。ある日、塾で算数の授業を受けていると、先生が「この問題を解けた人はフェリスに受かる!」と言いながら問題を出したんです。
どんな問題だったか、詳しいことは覚えていませんが、私はその問題をしっかり解くことができました。正解者は私を含めた、たった3人。そのうち2人は、誰もが認める秀才でした。そんな2人と肩を並べられたことで「こんなにダメな私でも、これなら合格できるかもしれない」と、少しばかりの手ごたえを感じ、同時に少し自分を認めることができました。
そしてこの年の12月――。あまり良くないのかもしれませんが、私は冬休みが明ける1月上旬からは学校には登校せず、家で受験勉強に専念することにしました。完全にスイッチが入った状態で、意識は受験モード。1日24時間のうち、少なくとも16時間は勉強に費やす日々が始まりました。