若い頃、一度だけ美輪明宏さんにお目にかかったことがある。
2003年の春のことだ。
当時アルバイトしていた出版社で、ある編集者からサイン本を作るのを手伝うよう頼まれた。
100冊ほどの新刊を台車に乗せ、指定されたパレスホテルの一室を編集者とともに訪ねると、髪の毛を鮮やかに黄色く染めた美輪さんが待っていた。
香水なのか、花なのか、真っ先に華やかな香りが鼻に触れたのを覚えている。
美輪さんは想像していたよりずっと軽やかに、担当編集者と言葉を交わしていた。
バイトという立場に徹し、僕は無言でサイン本の準備に取りかかった。
しばらく編集者と世間話をしていた美輪さんが、不意に「あなた、ちょっと顔を上げなさい」と口にした。
はじめは自分にかけられた言葉とさえ認識できなかった。
戸惑いながら視線を上げると、美輪さんは直前まで浮かべていた笑みを引っ込め、なぜか厳しい目で僕を見ていた。
そして、あの揺れるような声で言ったのだ。
「あなた、いい顔しているじゃない。でも、いまいろいろなことに不満を抱いているでしょう? 違う?」
もちろん「美輪明宏」という名前はよく知っていた。
音楽好きの父はよくレコードをかけていたし、幼い頃の僕にとって『愛の讃歌』は美輪さんの楽曲だった。『もののけ姫』のモロの君の声は印象深く、『紫の履歴書』もすでに読んでいたはずだ。
そんな伝説めいた人が自分に声をかけている。
美輪さんは呆ける僕を見つめながら「そうしたら私が一つアドバイスしてあげる」と続けた。
そしてはじめてうっすら微笑み、断じるようにこう言った。
「あなたは将来、いま自分の周りにいてほしいと思う大人になりなさい──」