<span>消えない道標――美輪明宏さんが遺した言葉</span>

消えない道標――美輪明宏さんが遺した言葉

2026年7月12日

6月20日午前9時30分、老衰のために逝去した美輪明宏さんは数々の「言葉」を遺している。生前には「この世のすべての問題を解く鍵は愛です」と常々口にしていたといい、それらの言葉は時に人の人生を変えてしまうほどの「力」を持っていた。20年以上前、小説家の早見和真氏は美輪さんに出会う。そして、わずか数分間の出来事が人生を変えてしまった、と綴る。

 若い頃、一度だけ美輪明宏さんにお目にかかったことがある。
 2003年の春のことだ。
 当時アルバイトしていた出版社で、ある編集者からサイン本を作るのを手伝うよう頼まれた。
 100冊ほどの新刊を台車に乗せ、指定されたパレスホテルの一室を編集者とともに訪ねると、髪の毛を鮮やかに黄色く染めた美輪さんが待っていた。

 香水なのか、花なのか、真っ先に華やかな香りが鼻に触れたのを覚えている。
 美輪さんは想像していたよりずっと軽やかに、担当編集者と言葉を交わしていた。
 バイトという立場に徹し、僕は無言でサイン本の準備に取りかかった。
 しばらく編集者と世間話をしていた美輪さんが、不意に「あなた、ちょっと顔を上げなさい」と口にした。
 はじめは自分にかけられた言葉とさえ認識できなかった。
 戸惑いながら視線を上げると、美輪さんは直前まで浮かべていた笑みを引っ込め、なぜか厳しい目で僕を見ていた。
 そして、あの揺れるような声で言ったのだ。

「あなた、いい顔しているじゃない。でも、いまいろいろなことに不満を抱いているでしょう? 違う?」

 もちろん「美輪明宏」という名前はよく知っていた。
 音楽好きの父はよくレコードをかけていたし、幼い頃の僕にとって『愛の讃歌』は美輪さんの楽曲だった。『もののけ姫』のモロの君の声は印象深く、『紫の履歴書』もすでに読んでいたはずだ。
 そんな伝説めいた人が自分に声をかけている。
 美輪さんは呆ける僕を見つめながら「そうしたら私が一つアドバイスしてあげる」と続けた。
 そしてはじめてうっすら微笑み、断じるようにこう言った。

「あなたは将来、いま自分の周りにいてほしいと思う大人になりなさい──」

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