脳は「特別な器官」ではなく「臓器のひとつ」
AIと脳は「知性」や「知能」という文脈でよく同じ土俵に置かれます。しかし脳を研究をしている立場からすると、両者をそのまま比べることには強い違和感があります。確かに、機械学習で使われるニューラルネットワークは、歴史的には神経回路を手がかりに発想されてきました。とはいえ、人間の思考は脳だけで完結しているわけではありません。まして、脳を身体から切り離した情報処理装置として見ると、重要なものを取りこぼしてしまいます。
意識や知性の根幹を成すというイメージから、脳は「特別な器官」と思われがちです。しかし私にとって脳は、まず心臓や肝臓、腎臓と同じように、細胞でできた「臓器」です。化学物質と電気活動で動き、血流やホルモン、免疫、腸内環境など、他の臓器とのネットワークの中で働いている。暴飲暴食で胃腸を壊すように、睡眠不足や過剰な情報負荷によって脳の働きが乱れるのも、臓器として考えればむしろ自然なことです。
脳が全身の司令塔になっているのは事実です。しかし、身体のことを脳が一方的に決めているわけではありません。例えば「神経免疫連関」があります。神経系は自律神経系や内分泌系を介して免疫細胞の働きを調節しますが、免疫細胞も炎症性サイトカインなどを通じて脳の活動に影響を及ぼします。発熱、だるさ、痛み、気分の落ち込みといった反応は、脳と身体が双方向に連絡を取り合っていることを示しています。
さらに、近年注目されているのが「脳腸相関」です。腸にも独自の神経系があり、迷走神経やホルモンを介して脳と密に連携しています。例えば、私たち甘みを舌だけで感じているわけではありません。舌の甘味受容体が働かない条件でも、動物が糖を識別できることがあり、腸の上皮には糖を検知し、神経へ情報を伝える細胞があることが報告されています。
従来、腸で検知された糖の情報は、血糖値の変化やホルモンを介して比較的ゆっくり脳へ届くと考えられてきました。しかし近年、腸から迷走神経を介して、秒単位で脳へ情報が伝わる経路も見えてきています。最近私が参加したチームの研究でも、腸内のグルコース情報が、迷走神経と中枢のドーパミンシグナルを介して前頭皮質を活性化することが示されました。一方で、マウスにストレスを与えると、この腸から脳への信号が弱まり、前頭皮質の活性化も低下することが分かっています。
身体は思考の働きに深く関わっています。ここが、いまのAIと人間の大きな違いです。私たちは新しい技術が現れるたびに、脳をその技術になぞらえてきました。電卓が出れば「脳は電卓のようなものだ」と言い、コンピューターが普及すれば「脳はコンピューターのようだ」と言い、AIが現れれば「脳はAIと似ている」と言う。けれども、それは人間が自分を説明するために、その時代の道具を鏡として使っているだけなのかもしれません。50年後には、脳とAIを同じもののように比べていたこと自体が、少し素朴に見える時代が来るのではないかと思っています。