かつて日本には、米軍の核兵器が配備されていた。正確には、日本への返還前の沖縄に、である。1954~55年の第一次台湾海峡危機及び1958年の第二次危機を受けて中台の軍事的緊張が高まると、同盟国中華民国(台湾)への攻撃を抑止するため、米空軍は核を搭載したメースB戦術地対地巡航ミサイルを1961年から沖縄に配備した。良く知られるように沖縄返還交渉においては、この沖縄配備核兵器の取扱いが大きな論点となり、いわゆる「密約」の問題を孕みつつも佐藤栄作総理が「核抜き・本土並み」を決断し、1972年にこれが実現した。
一方、あまり知られていないのが、「核抜き」でも軍事合理的に問題ないと考える専門家の影響力である。冷戦期の防衛政策に大きな影響を及ぼした内務・防衛官僚だった海原治は、国防会議事務局長を務めていたおそらく1967年頃、幹事長等を歴任した自民党の田中角栄を訪問した際、沖縄の核付き返還の是非を問われた。そこで海原は、「別に核は要らない」、「メースA、Bとありますが、古い方です。こんなものは役に立たないし、ポラリス潜水艦もできたことだし、沖縄に核は要らない」と応じた1。沖縄に配備された核は兵器として時代遅れであり、加えて核弾頭搭載の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)である「ポラリス」も運用されているのだから、不要だとしたのである。
また、佐藤総理の諮問機関として若泉敬、高坂正堯ら民間有識者を集めて設置された「沖縄問題等懇談会」分科会の「沖縄基地問題研究会」も、佐藤の「核抜き」方針表明に影響を与えたとされる。1969年に同研究会は報告書を提出したが、そこで沖縄への核配備の重要性の低下を指摘したのである2。この結論を下支えしたのが、研究会を構成する有識者のほか、同研究会が開催した「沖縄及びアジアに関する日米京都会議」に出席した米国の核専門家であった。そこで米国核戦略の基礎を築いたアルバート・ウォルステッターは、脅威に対する核戦略上の近接基地の役割低下と東アジアにおける核アセットの必要以上の重複を理由として、返還後の沖縄米軍基地に対する、本土と同様の安保条約に基づく事前協議制の適用を主張した3。「核抜き」沖縄返還の背景にこうした戦略論の観点からの下支えがあったことが、その実現を確かなものとしたと言える。
こうして考えると、核抑止の議論には軍事的有効性(military effectiveness)の裏付けが不可欠であることが分かる。しかし核抑止論は、核兵器も兵器である以上、戦場において軍事的効果を発揮するために用いられるという前提をしばしば忘れてしまう。石破茂総理が総理大臣選出直前に米国ハドソン研究所ウェブサイトに寄稿した、アジア地域での核共有や米国の核の展開を主張した論文も、その一つの例である。……